9/1~9/23 記
先ず
このタイプ論が流行るより前の時代、個性に六十干支を組み合わせて適応した四柱推命でも同様の社会現象が起きた。30年以上前に巷を賑わせたこの干支概念では、○○生まれの女性は独立独歩の気風が強いから嫁の貰い手が少ないとか、異常干支生まれは困難がおおいとか言われており、年月をずらして出生率が減少した年もある。四柱推命は生年月日に適用するものだから、その人が生まれ死ぬまでの個性に適用するものといえる。
タイプ論にせよ四柱推命にせよそれら流行することが示す意味について考えてみると、研究者の領域であった学問が水の性質のように、また遡行すると思想の潮流というように、山から海へ流れまた天へ昇りその領域に循環が形成されて、結果として注力されることになる。山から流れる水は下流広域にゆくにつれ、他のものと混ざり合ったり薄くなったりして観測や解釈するものが増加する。具体的にはシャンパンタワーの上から水を灌ぐようなものだ。一つの事に取り組み、やがて杯は溢れる。溢れた水は縁ある者たちへ流れ、また流れゆく。つまり唯物的に寄り過ぎている現代において、こころに焦点をあてたものが力を帯び始めたとでもいおうか。時代精神の顕れである。
現代は人類総体の科学により自然や死などを縁遠く制御している。灯り多く食うに困らず、SNSも発達しているので絶対的な危険が減少し、またあらゆるモノが飽和していることからも意識はあらゆる方向へ薄く分散し、流れやすく定まりにくい。
MBTIと16タイプパーソナリティの位置
たしか仏教において、仏法に厳密に沿うべきだとする宗派と念仏を唱えるだけで極楽浄土へ行けるという宗派があった。数字でいえば1と2の関係だろうし、五行論的に解釈すると、後者は前者である金気から生じた水気による木気の生起とでもいおうか。
大元を遡り具体化しようとするとキリがないが主たるユングやマイヤーズの思考を辿るには、彼らの生きた時代背景や当時の語義の理解が必要となる。時空を超えたフィールドワークとでもいおうか、言い換えれば、限りなくゲーム世界やオーケストラの音世界に時空を忘れ自我を置き去りにして没入できるようにしなければ味気ないもの、浅い内容となってしまう。
日本MBTI協会から観た16タイプパーソナリティの縦構造的位置付けはそういうことだろう。
また反対に16タイプパーソナリティからみたMBTIというものはあくまで親であって、和魂洋才という言葉があったように模倣対象であっても巣から飛び立たぬ子鳥に甘んじるつもりなく、MBTIという型を修めて新たに道場を興したようなものだ。16タイプパーソナリティから観ればMBTIとは並んで横構造というべきか。
私たちはこれら二つにたいして、混合して認識しているので混乱が生じている。構成する素材がどちらも異なり、またSNS等の話題提供者によって解釈が異なる。またそれらに智の光を入射せず水面で反射している者は、性格タイプ論という新芽の伸びゆく先である生長途上の枝葉を観ているが故、これから咲き誇る花もその全体図も視えていないことに帰結する。
両者の構造
単純に進化論的に解釈すると、提唱者であり観念を概念に昇華し科学としたユングを1とすると、MBTIは2で、16タイプパーソナリティは3となる。つまり本来は3である16タイプパーソナリティを1としてしまう(これのみを捕捉する)と、1や2との歴史的つながり、深みに欠けるので誤解が生じやすい。
いま現在の私たちから陰陽的に解釈すると、ユングを太極とするとMBTIは陰、16タイプパーソナリティは陽となる。陰の性質はあまり社会に受け入れられないので、それを補うために陽の性質が必要となる。陽の性質によって広く薄く波及する。
五行論的に解釈するとどちらも木気にあり、あえて比較すればMBTIは金気がおおく、16タイプパーソナリティは水気がおおい。水気は低きところへ流れるので、力なきもの・生長する意志あるものといった若者に流れて木気を生ずる。木気の後に火気が生じるが、現代は(自然界においても同様に)木気が衰弱していることから多様性や次世代、若者を大事にする時代であろうから人類は木気を扶けることが望ましい。
意識深度的にいうと、ユングが潜っていった幾千幾万の井戸(イド)、性格という深いものは奥暗く未知故わかりずらく、意識という光を当て続けなければ視えない。意思疎通や心通わせるといった方が腑に落ちるだろう。物理的には可視光域・可聴域であって尚且つ周波数を同じくして共振することにある。アニメ『エヴァンゲリオン』に喩えると私と相手のATフィールド、心理学的にはカクテルパーティ効果(世界の雑音の中から対象を聴き取る)を形成したりパーソナルスペース(個人空間)に入ってその自動で展開されている個人力場、または領域や環界とでもいおうか、それに同化しなければならない。
その反面ペルソナは表層であるからわかりやすく、ATフィールド越しである。自らにたいして観察・分析することはそのフィールドを解除し、俗気を排除したときにすることが望ましい。
存在意義の統合
どちらにせよ他者理解の窓口、きっかけが16タイプパーソナリティの診断の容易さによって開かれた。これはまるで子どもにとって、おままごとやRPGゲームなど社会における一から二、三といった分化、適用をとおして自他や役割を分ける概念遊びのようなもので、子どもが遊べない概念遊びは大人の遊びでしかなく、両者揃って遊べるものは昨今問わず不変の価値がある。
畏怖と反対の位置にある遊び、個人の創意によってのみ専門家ではない人類多数の向上となりえる。畏怖への対処はそれを感知した者が先立って対応可能で、遊びはそれが下流へと行くにつれ、流行ることによって話題性としても浸透しやすく無意識に学びやすい。その内にはもう少し深淵を覗こうとする者もいるだろう。
科学とはなにかと考えてみると、問いにたいして一つの科学式を編み出すもので、存在にたいする百面鏡の一解釈ともいえる。一観念が一解釈となり、その一解釈の力が増すにつれて相対する科学的批判によって研がれ、概念に昇華される。
ことば
英語の語義として
・type 類型
類概念
・Personality 人格 個人
Person, Persona, Personal, Perspective persの抽象は個
個=単一なもの=ある(社会)集団内の一つ
・Character 性格
Charact, Charm, Charge, Chart charの抽象は持続(連続)する性
死後生存(生まれ変わり)や進化論における蝶の変態や胎児の変化のように、超心理学・神秘学・神智学・人智学あたりで主に用いられるだろうもの
・Individuality 個性
In+divid+ual+ty 内に→分かつ
私の内に、内界と外界を分かつ
・Idiosyncrasy 個人の特異性
Idiom→ Idio+syn+crasy 熟語→特異性
ユング 著、林道義 訳『タイプ論』との関連
第二章の定義によると、個性や個人をIndivid~と記している。
ペルソナは仮面なので環境に応じて変化し外から観測できるが、個性は内面だから観測が難しい。心底に潜るような心理カウンセラーの類は投影や同一化によって個性が開示されてゆく。岡潔の言を想起すれば、「人の痛みがわかるというのは私も痛むことにほかならない」。言い換えれば、式場勤務であれば新郎新婦の幸福を、彼らや親、友人の気持ちと同調同化しなければハレを祝福したとはいえない。
235~236貢を解釈すると、ペルソナは私と他の間に位置するものなので、英語ではパーソナリティに当てはまる。引用してみよう。
「世界の本質である神は世界を内包している、しかし同時にわれわれのすぐそばに、それもわれわれ自身の体内に、存在するのである。」神は彼にとって普遍的な自我であり、一方個人的な自我であるわれわれの内なる「天」・感覚を超越したもの・神的なもの・は≪良知≫と呼ばれる。良知は「われわれの内なる神」であり各個人の中に宿っている。それは真の自我である。つまり藤樹は真の自我と偽りの自我を区別する。偽りの自我とは誤った考えから生まれた後天的な人格である。この偽りの自我を「ペルソナ」と呼んでもこじつけにはならないであろう。
ユング 著、林道義 訳『タイプ論』235貢(中江藤樹の言を交えて)
ペルソナとはわれわれのあり方についての全体的なイメージであって、これはわれわれが周囲へ働きかけた経験によって、また周囲からわれわれに働きかけられた経験によって、作り上げたものである。
同 236貢(ユングの意図するペルソナ)
「人が自分自身と周囲からどのように思われているかを示すものであり、その人本来の姿ではない。」
同 236貢(ペルソナについて、ショーペンハウアーの言葉を借りて)
自我超越である”真の自我”と、ペルソナである”偽りの自我”については、ヤスパースやシュタイナーも似たようなことを述べていたが引用が多すぎるので割愛する。また、数学者である岡潔も似たようなことを述べている。仏教用語に置き換えて、小我=自我、無明=自我本能と言い換えている。なので”偽りの自我”=小我である。以下は岡潔の述べる自我と真我について。
(前略)
岡潔『日本のこころ』130貢 講談社
五つになれば感情、意欲の主体としての自分を意識するようになる。そうするともう自他の別もはっきりつく。これで自分という意識の根幹ができたわけである。ふつうに人が自分と思っているのは、この自己を根幹として枝葉を添えたものといえる。だからこの後ふつうにしていれば、その人は絶えず自分があると思っているわけである。
ところが、大脳前頭葉の抑止力を適当に働かせると、その自分を消し去ることができる。そんなに簡単に消してしまうことのできる自分が、本当の自分であるはずがない。しかも、ふつう自分と思っているような自分を消し去っても、なお自分は残る。これが本当の自分だといえる。この自分を真我と呼ぶことにする。
(中略)
自我を自分と思っていると、自分は肉体が死ねば死ぬものとしか思えない。また死に対する恐ろしさを必ず感じる。これに対して真我が自分だとわかると、悠久感が伴い、実際の季節の如何にかかわらず春の季節感が必ず伴う。この真我が、前にいった生命のことなのである。
真我というと、端的には死生観といった時空の超越であるから霊性を帯びている。これについては次に持ち越す。
なので性格タイプ論への懐疑、またMBTI協会が懐く16タイプパーソナリティへの差別化は、どの”私”を診断して自我としているかわかりにくいことにある。私というと自我本能・自我・真我・霊我などあり、なんにせよ私は何と何の媒体であるかという位置づけによって意味が異なる。
MBTIのタイプは、一生変わらないのでしょうか? | 教えて!MBTI® MBTIを正しく認識していただくためのQ&A | [公式]日本MBTI協会
祭心理学さんの調査結果について
20240831「MBTI」について心理学者が言わないこと|祭心理学 (note.com)
「再検査信頼性が低い」という言は的を射ているし、私もよくそう思った。しかしまあ、種子がせっかくここまで発芽したものを育ちが悪いからと切り捨てるには惜しいし、カボチャのようにいきなり生長するかもしれない。俗なことにも価値がある。
論
社会的望ましさに影響を受けるということは、その望まれる仮面をつけるということになる。相手の望む仮面をつけることであり、その仮面に意識を同調させる行為だ。マーケティングでも同様だが、その社会がどのような人物像をどこまで明確に定義しているかはともかく、上図Bという空の仮面のうちに個性(私の外界と内界)を入れてみたり、AとBの仮面を統合してみたりと様々だろう。
一歩横の学問に表現を換えると社会という複合体構造のうちに私を転生させる行為、通過儀礼(イニシエーション)のようなもので、その社会がどの深度域の人物像を指示による定義をしているかわからないが、少なくとも無理をするような上辺の付き合いは両者好むものでないだろう。なので実際のところ、末永く付き合うことを社会が望んでいるのであり、その人物像というものは表層でなく中層や深層の個性だ。経営者目線から労働者採用を考えてみると原則的に、一年目は赤字であり、二年目は±ゼロ、三年目ではようやく黒字である。
また、意識は常々変動するものであり、条件によって結果は変わる。結果が都度変わるということは意識の表層であって、性とは言えず本来の自我とは言えない。性というと、個性・性格・個性・物性・霊性・性分・男性・指向性・国民性・法則性など、不変性の高いものを指す。補足として、漢字の”性”は字義としては”心立てた生”を指すが、生の示す時空間や状態は不定である。
条件というと、去年八月暮れの日本心理学会大会の折、辻敬一郎先生が公演で述べておられたことが思い起こされる。ふわっというと、アメリカ滞在時にマウスを用いた実験で、アメリカのある研究者が再現性に取り組んでおり、結果的には辻先生が再現性の証明を果たすことができた。そこに至る過程において、前者は多忙なことから対象を肉眼で見ることも世話管理することもなく助手に任せ、機械測定結果のみ重視しており、後者は自ら常々粘り強くマウスと共にあり根本から正反対であった。
この両者の違いは先ず研究対象への没入深度に差がある。観測者自らのことですら理解するには時間がかかるのだから、その対象と取り巻く環境にまで手を伸ばすとたいへんエネルギーが必要となる。たとえば休み明けと週末残業時の結果は大きく乖離するだろうし、また時間尺度を縮めると朝と夕暮れでも結果は異なるだろう。助手や機械任せ度合が高いとエネルギーを費やしていない分、必ず見落としが生じる。これはMBTIと16タイプパーソナリティの違いと同義であり、システムとは人の一部を切り取り分化したものにすぎず、必ず欠損が生じる。もちろんシステム任せではなく人であっても、その人の器の大きさや努力により結果は左右される。
結
社会的望ましさを受けないよう観測するなら先ず観測者は、システムで観測できない例外にたいして観測対象以上の包括者的存在として、または空の状態として同一化できねばならぬだろうし、また、対象者意識の極と極の中間でかつ、長期的に不変性の高いものがねらいで、生命が変態、進化してゆくように、こころの変化も加味せねばならない。
進化論を物性に限らず真我(自我と霊我の間・わたしとわたしたちの間=魂=こころ)に適用する必要もあるだろう。ペルソナが変化を受けやすいように、観測しやすい人の肉体は、骨であれば数年、それより柔らかいものは数週間数か月で生まれ変わるのだから似たものだ。
肉体が変化しても持続する意識を支えているものは霊魂である。
つづく
オープンチャットのQ&A
霊魂の転生(生まれ変わり)について|福山慎二Shinji.Fukuyama(INFJ・創作家・私的研究家) (note.com)
霊魂体について、輸血拒否事例を参考にされたい
宗教考 -宗教と哲学- | 創作館 (shinji-fukuyama.com)