影の投影

 前回『気による映り方の変化』を記してからいろいろと遊んでみた。小学生の頃合い下校時に影踏み遊びをしていたことが懐かしい。たしか民族や文化風俗によっては暗影に関する事柄が多い。近代以降の学校教育なら光で遊ぶことだろう。光の側から私の目を媒体として影を見ると距離に応じて輪郭の明瞭度が変わる。鏡を用いてみると凹レンズ平レンズによる映り方では、凹レンズは適性距離より前後すると局所集光したり歪にぼやけ、平レンズではほぼ一定に曖昧さを包有する。

 前記では指三本としたが、片手指で円形をつくり覗くと最短焦点が変わるが光に向けてしてみると明度も下がっていることがわかる。なので紙面に投影してみると、指の質料とまで濃厚とならずとも似た濃さが投影された。

図1 6/14

 さて次に、手先を投影してみた。すると一定の距離を超えるとまるでレントゲン写真のように透過され、なぜか指の付け根が細く指先は太く、また先端が光っていることがわかる。おそらく視線に等しく、人へ指をさすなというように力の出入り口なのだろう。そう考えてみると姿形はカタツムリの目に似ており、ほか昆虫の触角でもそうだろう。

図2 6/14

 こちらは葉っぱで、茎は水を含んだ空洞であるから透過しやすく、葉は付け根と先端にまるでリンゴのような、またN極S極のような画が顕れた。写真では見にくいので白紙を用意して自ら再現したほうがわかりやすい。

図3 6/14

こちらは煙管を透過したもの

図4 6/14

フルスペクトラム照明(太陽光に寄せた周波数帯)で煙を顕したもの
一般的に用いられる電灯では煙の可視が弱く、また煙を顕す持続時間が短い
本稿では煙草を用いているが、珈琲の湯気も電灯では見え難く、フルスペクトラムでは長らく可視化される
手を光へ向けると、比して手の内発する光力が弱くまったく見えにくい

図5 6/15

近代以降の問題

 さて上記からわかるとおり、理气二元論における理の立場で獲得した電気では、電灯による環境光の下では氣といふ不確かなものが見え難い。室内照明は真上についていること多かろうから影はなおのこと目にすることがない。電灯は暖かみなく自然でなくここ一二世紀ほどのまだ不慣れな人工物であり、人工物であるがゆえに自然である太陽光、次に火と比して陰陽やあたたかさが存在しえない。電灯によっては帯域が狭かったり帯域の凹凸があり、目がそれに慣れて基準としてしまうことで、その帯域内のものしか感知できぬよう狭域へ衰退してしまい、その結果として太陽光が敵となりその反面暗闇に安堵するのだろう。虹や气や靈を感覚することできぬ者が増えたのも同じことだろう。梅雨期の曇天のように、生音ではなくパソコン越しの音楽や絵画に触れるようなものだ。それが常態化すると、感情であれ生の実感であれ波風が立たず無気力症や機械のように感覚が衰弱する。AIと話しているほうが楽しいという人がちらほら増えてきているのは、社会の多くが総体として無気力となってきており、AIや芸術に触れているとまだ生き心地が得られるためではないか。無気力化するほど無気力でない者が異質とされるし、無気力化するとは自ら思考する力が失われ被暗示性高まることを指す。男の性の弱化も然り。SNSにおける写真においても、企業が意図していないにも関わらず写真が競争社会かのように並び、ノイズ多かったアナログフィルム写真よりノイズ少なく鮮明なデジタル写真を基準としてしまっているので、AI加工物多ければなおのこと不明瞭不確かさ不美の許容域が限られ、何人なんぴとも意図せずより外見すなわち影よいものへ流されていることがわかる。これは作家や研究家や職人、自営業者といった個性に根差した専門性高いモノ作りが減退していることも等しい。

 つまり必然と不明瞭不正確なものである個性の排除、外見の整形化・成型化による画一化が進んでおり、ヨコ社会留まることなくタテ社会へも溢れルールやマナーといった悪く同調圧力が相互監視社会が如くはたらいている。ナイフが凶器へ変化してしまうことがあるように、善人が悪人へ変化してしまうこともあるように、脊因として社会構造や靈や天地自然など見るべきところは多くある。家で雑菌や虫が繁殖したからといって滅菌したところで同じことの繰り返しであることは自明だろう。当人の生活習慣の問題であり転嫁しているにすぎない。この状況下で御上と下々の乖離差拡がるほどどうなるかは明白であるから、縛るものといった重たいものは少ない方が気楽であり、老子がいうように上下差は無ければ無いほど家族のような安穏社会である。100人の村で10人が精神衰弱となっても立ちなおせるが、9割ともなってくると通常が90人であり異常が10人であるから、これでは文明の利器も楽しめず、丹精や愛無き衣食住となって全体揃って不幸が常となる。これが今世の淫ら乱れて妄りた現状といえる。一人ひとりが嬉し楽しであればそもそも問題はここまで広がらず、また勘違いして嬉し楽しというカネや名誉やクスリなどを与えてやろうというからなおのこと歪んでいるのである。
 これを自然人や人智學徒や宗教家やスピリチアリストや知恵者あたりでは、靈性や概念や言葉上ではなんであれ、目にみえぬ魔の手だと直感しており、実際のところそうでない人々は薄々嫌気さしながらも良かれと思いその方針で先鋭化しているのである。AIという偉大な科學発明でも社会階級上下離れるほど、危うさわからず共に考えることできず反対に的を得た発言をも抑圧せしめることになりえるのである。左脳偏重と言うこともでき、その状態持続するほど年々と創造性が減少し既にあるものにばかり囚われており、未だないものに目を向けておらず文明自体が衰弱していることは明白である。養老孟司 氏のいう脳化社会とは、極度な左脳化社会となっているのが現状である。それに反発して極右脳つまり現実感無き空想夢想に住まう者が生まれる。御上は人工に囲まれている環境に居続けるゆえ自然が足りない。現場で動いてみないから、フィールドワークをしないから人工物の狭域でしかわからない。もちろん一般大衆もそれを知らず意見が噛み合わない。右脳派や中道の者が左脳へ流れることは空の物質化であるから問題ないが、右利きの多い社会であり理数系ばかりが優遇されると物質へさらにメスを入れるように、皮肉屋が増えるようになおのこと危うい。

 人付き合いの問題を考えてみるに、オンライン会議なるテレビ通話は技術上仕方なく様々な制限が掛かっており、生演奏とライヴ中継・直接肉体を伴い会うことと仮想空間延いてはメタバース空間・などといった大きな隔たりが存在する。平易にいえば技術進歩に人はついてきていないのであり、これは人工と自然との差も同じである。老人と若人では時間空間という環境の起点が異なるゆえ、技術進歩速度も速すぎるがゆえ年齢における適応速度も違うことから感覚や認知が両者まったく異なり意見が嚙み合わないのは至極当然である。若者とてまた次世代の若者にはついてゆけず動画化高速化であり歩みは開くばかりだ。屋外肉体労働と室内頭脳労働差のように、近代以降の病は多く自然との乖離である。言葉が論理であり惑わせるものであるとスタンドアローン化し考えるもまた過度な集中によるものであるから病である。芸術に昇華できればまだ美しい。もちろん意図して操らんとす者、意義をはき違えし者いることも事実であるし商売においていまだに見受けるものだが、人はいまこれからを幸福追求するのであって過去歴史といふものはいまこれからを前向きに活かす資であり教訓である。
 商売や権威偏重が過ぎて影の影ばかり追い求め自然忘れ去られた世の中ともいえる。人々の幸福を謳い文句としていらぬ不安を煽り営利化し、より商売繁盛させてゆくのであるから困ったものだ。人に問題があるのではなく資本主義・自己利益・自己優悦による他者指導の末期、構造背景が問題なのだ。人が人をカネや慾で使役管理することがいかほど傲慢なことか。みな揃って病人なのである。

 ところで社会心理上において、明暗の帯域が縮こまり均一化画一化されてゆくと人は社会はどうなるだろうか。各社会集団内において必然と、多数と少数との爭いが事々において生じえる。多くのばあい、少数は危機感から活きようと行為し、多数は安定秩序を揺らがせるなと言うことだろう。これに人智学式を用いれば、前者の地から天へ重力に抗い立つ”ルシフェル作用”、後者を天から地へ抑え込む”アーリマン作用”ということができる。もちろん少数多数という軸のみで語られるべきではない。
 個人内においても生の火に対する水の役割であり、身体においては、気温体温が高すぎると——本来明示するほどのことではないはずだが——熱中症になるから運動を控え緩くするのは自然であり、人工により無理に投薬や人工物で抑え込もうとすると体調が狂い精神が狂う。これは生死の境ならまだしも、平熱より高いからというだけで風邪薬を投薬して意識蒙昧とすることに等しい。情熱や熱中するものにおいては心の火力があるゆえ制御が未熟な若者はそれゆえケガをし周りも火傷しやすいが、その反面大人が驚くほどのことを為すこともできるのであり、自らが大人で若者に対してしつけ管理せねばならぬと勘違いしている者たちはその情熱その生命力その自由さえ抑え込んでしまう。これが近代以降の社会病理である。

 ではなぜ両者における誤解生じているかというに、大人や多数や力ある者たちが自然溢れる若者や想像性といったものを、心の不安から生じた結果としての安定と天秤にかけて切り離しているのである。私たちは自然から離れすぎており、自然とは定規でひかれたものでなく固形でなく移ろい流れゆくものであるから、未知曖昧を避け抑制しうる。よく陽光浴びている者からすれば、人工物である電灯下にいる者へほど無気力さ感じるはこのためである。また反対に輝いて見えたり煩わしさや精緻さに欠けるという見方をしてしまうのも同理である。本来は一人ひとり輝いているはずなのに、電気やインターネットにまだ未熟であるがゆえに心身はうまく適応しきれぬゆえにこの現状である。人は人工物によってのみ存在することはできない。自然と感性が乖離分別されているのである。

 このままだと男女は夫婦でなく無性化するともいえ、無個性化するといえなくもない。仏が自我私欲を捨てよと法説いた時代は今と比して個性極まる時代、過ぎたるは猶及ばざるが如しを避けるためであろう。キリスト聖人が隣人愛を説いた時代も、無個性同調でなく自己を大事にしたうえでの扶け合い調和を指したことだろう。慈しみは大事だが過度であれば植物に水をやり過ぎるが如く根腐れせしめ生長を阻害しうる。自然は勝手自在に育つのであって、その環境整備が第一義であり現状不備なのである。米農家が米を、山菜採りが山菜を交換し合いお互い喜ぶことにある。これを現社会情勢に当てはめてみると、みな揃ってアーリマン作用となることを避けるため火を焚いているともいえるが、憎悪の煙を共生歡喜の煙へ転化してゆかなければならない。
 人工である電灯の下では感覚が十分にはたらかず、自然に根差してこそ不明瞭を内包しつつわかりあえる。インターネットは精神に比重を置いた仮想現実でもあるので否定するわけではないが、いづれにせよ何人なんぴとも暢気さと自然に欠けておりそれが負の連鎖をしているのである。

 肉体が先か精神が先かは『座標考』に記したように、感動したり思考することができることから精神が先であり、物質伴うこの世においては肉体も大事である。肉体は精神延いては生活習慣の顕れである。つまり物体はそれ自体の精神による投影であり、現状すでに物体の影へメス入れることは物理学によって果たされているから、社会としては人々上下の乖離差開き過ぎていることからも一人ひとりの幸福の基礎作りへ移行したほうがよいのではなかろうか。映るものはその影であるから一人ひとりの自由自在性、多様性の苗床が大事である。はじまりに信賴や頭で考えないことも要である。これが道ですといえるものは道の残影である。

6/14- 記