( N∪S)εピア色
日ノ本生まれ通天し
こゝろ通わせゐのち輝けり


 述べ記すことは奏で演じることや絵を画くことと同じである。この同じとはそれを外在から自らの内界へ摂り込み経て再び外界へ生み出し具現化練成することである。内界から外界への過程において、具現化したいものを空へ描き气を形づくりそして理たる凝固と為すために丹精すなわち魂を込める。これを質という。数多の想いが詩となり唄となり技術わざのすべとなることに等しい。

令和七年
一月十八日

想像性・靈性・直観性について

 ルドルフ・シュタイナーと言わば、哲學・神智學・人智學・ほか(教育や音樂、建築、靈性など)幅広い。彼の暮らした時代は陽暦1900年前後であり、当時の時代精神として思想・哲学そして心靈サイ科学が盛んであつた。これは世界に名を馳せたる哲學者や科學者のみならず、實業家じつぎょうかや作家も心靈の興味深さを包摂している。

 心靈の興味深さというものには想像の産物に過ぎぬと思えること——つまり未知なるものや神祕なるもの——への好奇心が先ず根幹にある。そのきっかけは自らの摩訶不可思議まかふかしぎ体験や入眠時の夢世界体験、伝聞伝承や曇りなき童子性あたりだろう。この好奇心の元を辿らば大自然への畏怖畏敬やたのしみがあり、前者は山登りや砂漠を往くが如く幸福な將來への道其の過程たる苦難困窮へ抗い立ち學びゆくことであり、後者は平地が如くいっさいへ無為自然みずからしからずとも感謝し寄添い共に生きることである。前者を陰・暗・秋・金気、後者を陽・明・春・木気と言い換えることができる。
 どちらであるにせよ先ず大自然の現象たる自然——即ち之自らとすらば通時空の悠久なる私と時空間内の躍動する私かつ現象界から観たブラフマとアートマまたは气と理——は、ときに脅威ときに惠みとして姿かたちを変えて私たちの生を揺らがせることいまも変わりない。われわれは頭腦内でヒト・霊長類・人類といふ様々な類型抽象化ができると共に、あなたとあたし、わたしとわたくし其々それぞれ各々には特有な苦楽辿りし生い立ちや得手不得手と千差万別である。人工社会つまり創造の末たる文明文化において躍動する私が自然忘れて古里にあつた悠久長閑のどかさへの回帰忘れてしまうように、恵み求めて都市へ旅立った人たちは童話”浦島太郎”のやうにこころの放蕩ほうたふに流され暮れてしまいかねない。田舎はその場その時そこで察气により匙加減だが、都会は察气失はれ一理である計量器を用ふる。生まれを想起するに社会が初めにあつたのではなくおぼろげな空に先ず親があり自然があり友人があり社会がある。はじめに文字があつたのではなくこころがあり音を乗せて意となりことばとなる。いまここを認識できえる私においては、はじめにわれがあり自然があり文明文化がある。
 生存する上で肉躰にくたいと精神共に必要なことは感謝によりてソトから學びウチへ摂り込み消化吸収することにある。声や行いはウチからソトへ流れるやうに、すでにソトにあるものはおのが意を運びて學び樂しみ自らウチへの豊かさ育てるものであり、ここが砂漠であっても今日の生活に困窮せぬ世においては、相互扶助、独自性による得意事をゆとりにより助け合うことができる。

文明

 自然萬物は常に流転するゆえ、この無常な自然の在り方に抗いて少しでも住みよくしようとするのが文明である。
 生きものであり動物である私たち現代人は空腹になると台所や食料品店へ行くように、食べものが無ければ生きるために緑豊かな楽園を目指したり、新たに食べものを見出したり、加工や組み合わせによって食べることができないかと試行錯誤をする。それら経験を体系化し画として形象化し、普及して共通理解をすることができるようになれば、口伝と比べて広範囲へ時空間を越え無から有へと顕現し確実に”生きるためのすべ“として共有することができる。誰しもチカラの枯渇によりて心身老いゆくほど衰弱するほど心穏やかに安眠求めること、友人や子孫またその取り巻く自然環境の安らかなること祈り願うは同じだろう。

 延べて考えらば文明文化のいしずえたる画の普及は、一神教のすえたる啓蒙主義や植民地政策と映るものの本源だろう。自国の色水に他国の色水が混ざることを避けたいのは、紅茶文化に珈琲が持ち込まれるようなものだ。個々人がどのような判断をするかはさておき、水は祖なる人物の往生した中心地点であるほど——これすなわち外観上では金気であり山であり山より流れる川水である。——純粋であり遠くなるほど色々なものが混合する。——色々なものとは善し悪し快不快のみで語りつくせるものでなく、一人ひとりが親・経験・信念・過去や将来像が異なるように、その場や時空間ごとの多様性乃ち個性や彩りと解釈するほうが前向きでよい。そしてまた大海原へ波紋生じた水は雨となりて循環濾過される。
 特権階級による”啓蒙や支配の道具である”と推定するにはいささわだかまりが残る。もう少し身近に寄せて謂うと、自らが按配を自操により決めることができる科學技術の恩恵である乗り物やインターネットや娯楽といった便利なものが、私たち庶民にも広く普及しているのは一人ひとり自由を認めているからであり隔絶による差の拡がりが濁りを生むことわかっているからにほかならない。二十世紀後半以降の現世うつしよは懐疑批判思考の割合が増えたようにおもわれるがこの背景として、”適者生存則(自然動物界における弱肉強食)”や”マズローの五段階欲求説”や”霊感商法”あたりを根幹として引き合いに出されることだろう。

 いずれにせよこれら具象化されたものにはそれ自体がどのようなものであれ真偽がなんであれ、先ず観測者のこころ(意または色眼鏡)が対象に付与され具象化して映る。そして一次観測者のこころを通して二次観測者である私たちのこころが反映される。つまりそれ自体にたいして自ら直に自然純粋なこころで触れて観たのではなく、間に媒体が加わるほどそれ自体の実体から遠く離れて歪な像が完成される。

 心身の”最低限の生存”に困らぬ今世きんせと異なり、知らぬがゆえに”生存するための不毛な争い”を回避するべく、みなで生存するために権力を信託された者が他の権力者にまで共有することができればして現代げんだい万民の幸福となる。この万民の幸福が指す意味は『老子』に等しく、知識を含む財などが権力者にのみ専有されていると循環が悪く民草は痩せこけ廻り回って権力者に必然と帰してしまう。日本の歴史では度々繰り返される米騒動そしてまた弾圧されたことにより派生する諸々の乱、中国では黄巾の乱といったもので、その時世と異なりインターネットを筆頭に開かれた情報社会たる現世なので、悪の権化に映る権力者は絶対悪でなく自らと比した相対悪であり裏を返せば相対善であり、先ず私たちと同じく諸慾有り家族もおりやはりただの人である。隣人が富者貧者であるからと石を投げる者はおらず、自然生命たちが困窮しているからといって残飯を投げ捨てくれてやる者はおらず、自らがその立場同条件に実際になってみて初めてわかりはじめるように、歩み寄り7色や12音其々あるように調和の精神がコトはじめである。自然や人、人工物といったいっさい本来は先ず共存共栄が不文律である。ある賢人曰く「ペンは劒より強し」と云えどもそのこころは他者と生死命運掛けた勝負に非ず利害損得や金勘定に非ず、または「話せばわかる」の意を末代まで残し伝うものだろう。これらが忘れられるほど筆も学問も富も遠い状態な困窮したる者は実力主義や武力暴力革命だとかとなりける。平和な世とて顔色悪き者や疲労困憊な者増えらばその一帯は影を落し私たちのこころも陰りが生じえる。

アニミズム


 はたまた寄せては返す波に抗うのではなく、大自然と心交わし意を汲み取りて波に添うのが汎神精霊崇拝アニミズムでありその次として易である。その顕れを理化しモノゴトへ封じたり、式として操ろうとすると呪術となる。本来の呪や祝は厄除けるものである。ここに困窮や利害などが関することにより不幸ともなりける。この不幸により悪因縁悪業なりけり、回避するほど運が良くないほどさざれ石たる小さな一つ一つであるそれらはいわおなりける。今この刹那ではない過去は過去へ行くほど朧気となり曖昧となるが、反省し反転し今より明日へ活かす資となり師となり始とすることができる。ほかの神名かな“シ”でもいいかもしれない。また物質にせよ如何なるも气でありその理化凝固であるから、精神やこころも同様であること望ましいのであるが、煩悩なき状態とはなれども、人は常態としてなることかなわずそれはもはやAIでなくロボット以下でしかないゆえ、自らの小我を真我により自操し上手く活用してゆかねばならない。これを生長といい、分化された心身二元論を自らの手で統一するような知恵のはたらきである。これは不幸の道にせよ幸福の道にせよ道行くほど叶うることができ、困窮すること少なくなった今世においては幸福の道であること望ましい。不幸は不幸を生み出すこと容易であり幸福を生み出すこと難きことであるが、幸福は幸福を生み出すこと容易であり不幸を生み出すことはないだろう。

参考になる書よりここに引用する

 元来宇宙がんらいうちゆうわかれるとうことと、その宇宙うちゆうわかれることが人間にんげんわかるとうことは同時どうじであり、表裏ひようりをなすことであり、不二一体ふじいつたい事柄ことがらである。宇宙うちゆうがワカレルことを剖判ぼうはんい、そのことが人間にんげんにワカルことを判断はんだんう。判断はんだんがなければ剖判ぼうはんはなく、剖判ぼうはんがなければ判断はんだんもない。宇宙うちゆう陰陽両儀いんようりようぎわかれるとうことは同時どうじすで人間にんげん最初さいしよ判断はんだんである。
 太刀たちちである。たとえば物事ものごとには首尾しゆびがあるが、その首尾しゆびわかるのはあたまなかでそれをくびふたつにるからである。らなければ首尾しゆびわからない。うした人間本具先天にんげんほんぐせんてん判断能力はんだんのうりよくがすなわちつるぎであり太刀たちである。「一剣天いつけんてんる」とわれる所以ゆえんである。てんるとは先天せんてん意味いみする。
 つぎつるき連気つるぎまたは釣義つるぎであって、ばらばらになっているくびとをらねあわせて、もとの、しくはあたらしい第二次的だいにじてき完全かんぜんかたちることを真釣まつり(まつり、まつり)とう。すなわちつるぎ太刀たち分析ぶんせき総合そうごう帰納きのう演繹えんえき両面りようめん知性活動ちせいかつどうである。みぎごとくこの人間にんげん判断性能はんだんせいのうたてもちうれば次元じげんあらわわれ、よこもちうれば時間じかん空間くうかんすなわちその色相しきそう変化へんかがあらわれる。これが天沼矛あめのぬぼこはたららきであり、つるぎ太刀たち作用さようである。ぜんではこの人間本具先天にんげんほんぐせんてん判断性能はんだんせいのうを「冷煖自知れいだんじち」の能力のうりよくう。

言霊百神 : 古事記解義 新装版 | NDLサーチ | 国立国会図書館 p46 創造の序曲


 シュタイナーはImagination・Inspiration・Intuitionによって超感覚の獲得を為すことができると述べた。日本語では直訳で想像性・霊性・直観性となる。

以下三点についてそれぞれ論じる

  1. Imagination
  2. Inspiration
  3. Intuition

ルドルフ・シュタイナーは超感覚の獲得について、この三つを順に獲得することを提唱した
本稿はシュタイナーの解釈考でなく、この三つの単語自体を構造分解し式を再構築する

また、それらの前提である感覚と知覚、超感覚について添える

感覚と知覚について

 現代は情報の大海である。唯物における物理数学が極まっていることから余裕があり、確固とされていない未知曖昧なものに進む段階に達しているといえる。物の理解によって空想夢想したものを具象実物化することができる。

論 -感覚

 感覚とは触れることにより感じ受けて生起する、生命を生命たらしめる基礎である。感覚が生じるためには私とソレとの差が必要であり、この差が別たれているほど刺激は大きくなる。差が生じるためには”感ずること”と”知ること”であったり、”動くこと”と”止まっている”こと、”私”と”あなた”といった分別が必要である。この分別は一なる私が生長しようとする意志のはたらきにより自ら分かち、ソレを獲得しようと能い動く試みである。

 また、ソレを獲得するほどソレと同一化を果たす。同一化とは観測者にとって同次元においては分かたれたものとの再統合にすぎないが、過程が異なることから妙なものを感じる。自ら獲得した私は度量に応じてソレがなんであるかを多次元に説明することができる。

 接触を通して感知することができるものは人である私のように、単細胞でも自らより微小な物質を通すことができる。この規模を大きくすれば地球に突入できるものは地球より小さいものであり、規模を小さくすれば卵子に突入する精子である。人体でいわば口に口より大きなものを入れることができない。これは感情や学ぶこと、語りえることも等しい。

論考
感覚

 喩えばリンゴとはなにかと問われて、基本は一点——赤い・甘い・丸い・など——を挙げることだろう。
 ところがこれは”情報や記憶を基に構築された感覚”の再現性が低いので書き直そう。言い換えれば、刃は使用するほど摩耗するので研ぎ直したり鍛冶屋で打ち直す必要があるし、手入れなく放置するほどなまくらとなる。実際にリンゴを調達して再現性の比較検証をしてほしい。

 見たところ、赤一色ではなく淡く他色が含まれる。手に取ると実のつまり(硬さ)を感じる、手に持つと重さや丸みを感じる、鼻に近づけると微かに甘い香りを感じる、歯にあたると硬い・滑る(丸み)を感じる、齧ったリンゴは噛み始めだけ力を要するが噛むほどにシャクシャクと細分化され嚙む力を要せず、また噛むほどにリンゴ体内の水分が溢れ出ることを感じる。このリンゴ体内の水分がジュワッと出るにつれ甘さを感じる。
 これを感覚という。リンゴに接する人ほど食感を思い起こし唾液分泌し食べたくなるに違いない。

感覚器

 感覚により取り込まれたものを受容する器、それを感覚器ということができる。リンゴを食べ終えてしばらくは感覚の余韻が残る。
 もし飲食物を口から食べ入れても排出まで直通で間髪入れずストンと排出されるならば、感覚はしても吸収されないことから感覚器がほぼ稼働していないことがわかる。諺では馬の耳に念仏が近しいだろう。

 肉体感覚においては、その特化された器官である手足や目や耳などを用いた肉体を通して摂り込む。つまり口へ入れたり触れたりすることによってその性質を体感し獲得することを指す。これを感じ覚るという。

論 -知覚

 感覚の次に知覚、つまり知り覚ることにより知覚器が形成される。知覚は感覚したことで生じ、記憶や持続意識により育まれる自己意識の基礎である。知覚器があることにより自ら分けたり、自他を分かつように観察することが可能となる。要するに文字がある私たち文明文化人と文明文化未開人のようなもので、文化人類学が扶けになるだろう。

論考

 さて話をリンゴに戻そう。リンゴという画の中の一つを感覚せずそのままにしているかぎり、リンゴと自然は分かたれずソレがなんであるかと不思議におもわない。ソレを自らの意志に基づき試みることにより環界は拡張ないし進化する。キリスト教聖典における楽園の追放とは、父である御神視点によるものであり我が子が苦労せぬようおもんばかる愛のカタチすなわち親ごころである。しかしやがて子もいずれ父となる。これは父子関係にせよ神と子の関係にせよ異なる次元でありながらも、交叉する座標ということができる。

 たとえば、(尖っている)ものに触れると痛いと感じる。”その(尖っている)ものに触れる=痛い”ということを知る。経験するほど痛みに慣れて感覚器は生長するとともに、ものが尖っている形状”だから痛いということがわかる。このわかるとは”尖っている=痛い”ということを痛みにおける知覚器において、予め知っているのである。
 延いて私たちは類似したものから比べることにより、似た結果を予測できるよう推理する力がある。これを類比推理という。

論 -器(感覚器・知覚器)

 感覚器は刺激により感じ覚ることで育まれ、知覚器は刺激により知り覚ることで育まれる。これは肉体に負荷をかけて筋力がつくこと、わかりたいことに頭を捻らせることで知力がつくこと、生命と接し感情揺さぶられることで愛情がつくことに等しい。これは肉体においての食事同様に消化吸収作用が働き、吸収することができない不要な余り物は排出されていることがわかる。

 また器には、自らよりあまりにも大きなものをそのまま摂り入れることはできない——蛇のように、吸収に手間がかかり時空間を占めてしまう——ので、基本は正数における素数のように、認識というザルを振るい通してその微粒子を摂り込むか、小分けにして幾度も味わうことで摂り込むこととなる。——前者は一つの大志の基に具象化、後者は具象化された一つ一つを構成して理想化する——

 肉体を構成する細胞一つ一つが新陳代謝により死生を繰り返すことで器は変化している。これは人が、起きている状態では肉体を通した意識があり、眠ると肉体を通した意識が死んだ状態で別世界に参入するように、またその記憶を幾年も保つことができるように、意識より上位の器では死生に係わらず実体(substance)以上の性質を有することがわかる。

 感覚と知覚はどちらも刺激により生まれ育まれるものであるが、未だ来ぬ未来にたいして予感と予知の違いがあるように大いに異なる。予感は予め感じることであり、予知は予め知ることである。前者は気配を察するように感覚において”推理している”のであり、後者は理論立った知覚において”推理する”ことにある。
 また予めとは盾と矛の”矛”に通じて今に矛を向け持つ”矜侍”の性であることから能い動くことであり、無意識下であれ自らが観測した未来に対して予防するため、自らの経験のうちから生ずるものである。延いてこのことから予言は選択すべきでない未来回避の性質を有する。

 どちらからにせよ感覚は感じ獲ていることの内実から感覚器が育まれて感性となり、知覚は知り獲ていることの内実から知覚器が育まれて知性となる。それらを判断し積み重ねることにより自らの理が確固となる。

感覚の超越(≒超感覚)

 そして私たちは物質だけでなく、新しいことを自ら学び問うたり、他者の痛みに共感したりすることができる。現実世界内の精神界における感覚は物質界の感覚のみで構成されるものでなく、念(観念・想念・理念・など)や気(気性・気配・気力・など)といった表象を感じとることである。これは感覚を研ぎ澄ますことによって場の雰囲気がわかったり他者への気配りができる。

 たとえば夢世界ではどう感覚するだろうか。睡眠時には肉体の活動が最小となることから、心拍や呼吸が落ち着いて眠ることができる。そして物理は適用されない。
 もし精神が——「あれが気になる」や「心配をかけてしまった」という今日一日の未消化により——躍動していると、神経が高ぶっている状態であるから入眠が遅くなってしまう。そもそも全身全霊を使い果たしていれば眠ることはた易きことだが、それは眠るというより気絶であって、精神の躍動が肉体の休息要求を上回っていれば結果として不眠症の類いとなる。
 話を戻し、自然に眠ることができているならば夢世界の中に私の意識は参入する。この世界では重力が弱い空間にいたり図書館で本を手に取ったりする。夢世界における感覚でも皮膚感覚を通して質感や形、においや音、風や水などを感覚することができる。これを精神の感覚ということができる。

三つの[ I ]について

 共通することは自らのウチにおいて、振動することである。

イマジネーション 想像性

図1 イマジネーション 2024/11/14 Shinji-Fukuyama

核となるものは獲得された”マジック”である。
刺激とは存在自体が発しているものでもあり、自らが存在に発すると同時に自らのウチに反射されるものでもある。
つまり私のウチに精力を溜めこむことである。
食事に換言すれば摂取行為ということができる。

  • M
     →母性・保守・内包・磁性・(発音において)”閉ざされている”音
  • Ma
     →MをMから表出したもの・(発音において)”閉ざされているM”を開く音
  • Mag
     →Mの特性によって一つの概念として生まれ存在するもの(磁性など)
  • Magi
     →Magの人
  • Magic
     →魔法・魔術・呪術・妖術・おまじない・占いなど
  • Image
     I-m-age
      →自らの内包する常態(私のウチに持続するもの、年齢や継続年数など)
  • Imagine
     I-magine
      →自らのウチに思い描く・(漢字においては)”代”
  • Imaginary
     I-maginary (Imagine – ry → magin(e→a) – ry)
      →自らのウチにのみ存在(想像)する
  • Imagination
     I-magi-nation
      →自らが内包し想像を持続したことによる性、または私の私による想像式

 イマジネーションとは受動ないし能動獲得による私自らのウチに思い描かれた式、つまり想念や観念といった念自体——平易には記憶や意識、思い込み——が持続性を持ち印象として内界を形成するものといえる。もちろん私の有する諸々のエネルギー質量に応じて、念から生起する印象は刻々と変化する。これは自己意識の形成であり現象の根源である。もちろん人であるから、疲れているときは疲れているなりの現象となりえるだろう。
 同じ対象にたいして個人個人で感知や意識に差異があるのは、個々人の経験の総体及びその対象にたいするイマジネーションの質量差である。

 イマジネーション獲得のはじまりは、おままごとや人形遊びや読み聞かせといった想像を駆使した遊びをしていることが主因である。おままごとや人形遊びといった”ごっこ遊び”では——RPG=役割を演じ遊ぶ=実体(substance)を変質させることで——その時空間において自他境界の開閉を獲得する。読み聞かせは視覚や肉体が静止していることから精神に力が注がれることにより精神が躍動する。
それら遊びを媒体としてイマジネーションを培う。もちろん男性であれども同様に、海や山など自然に多く触れていると不思議が多く

インスピレーション移行において (例:対人認識)

 僕が右の視座において行為すると、観察者はその視座に在る僕を観て想像を働かせる。また左の視座において行為すると、観察者はその視座に在る僕を観て想像を働かせる。しかしこれは僕が左右に振れ動くことであり観察された像は常に過去である。つまりどの地点における僕を観て心象形成するか、または想像を持続させながらも移動する僕を捉え続けるかであり、物理測定や心理測定のように——科学における物理学は、物理学者ファインマンが言うとおり現象として存在から切り離されていることを了承しながらも観測し研究することにある——主体と客体が切り離されて見ているか、それとも分かたず同体かで形成される印象は異なる。

 インスピレーションを働かせる者であれば、なぜ右へ左へ往生するのかとふと奇異に感じて不思議に思う。解することができないことは意識の苦痛であるから、空腹であると眠りが浅いように腑に落ちるところを探したり考えたりする。
 この探したり考えたりを続ける段階はインスピレーションへの移行であり、内実といった質をどこまで深めるか、また諦めるかによってイマジネーションの質量→インスピレーションの質量へ変換する際の損失率は大きく変化する。もちろん観察者の質量が少ないほど対象の内実という深みは見出せない。つまり僕に違和感を持ち、その奥にある我や私を見出す。

インスピレーション 霊性

図2 インスピレーション 2024/11/14 Shinji-Fukuyama

核となるものは受動獲得されたものに切り込みを入れ光を摂り込み、自ら葛藤する”スピリット”である。
つまり私のウチに溜めこまれた精力を研ぎ澄ますことにある。
食事に換言すれば消化吸収作用と濾過排出作用である。これは体内が振動していることに因るが習慣によるところ大きく、身体運動を最小限としてゆくと代謝速度が遅くなる。この精神を保ちながら運動することになったり制止したりを繰り返すと、慾との葛藤が生まれ打ち克ち続けることにより終わりなき精神の自操を獲得してゆく。初志貫徹というように、持続意識を保ちながら振動することにある。

  • Spark
     S-park
      →火花→公園(公の園、区切られた空である空間や域や界を指す)を切り開く
  • Spec
     →仕様・在り方を説く
  • Speak
     S-peak
      →話す→閾値を切り開く
  • Inspire
     I-n-spire
      →吹き込む・鼓舞→閉じきられていない自らの内にたいして切り込みを入れて流し込む
  • Inspect
     In-spe-ct
      →検査→閉じきられていない自らの内に切り込みを入れて行為する
  • Spirit
     →精神1(または霊、魂など)
  • Aspiration
     A-spirit-(t)ion
      →希望→志・独立した精神性
  • Respiration
     Re-spirit-(t)ion
      →呼吸→再び精神を戻す性
  • Inspiration
     In-spirit-(t)ion
      →私の内なる霊性

 インスピレーションとは私のウチに、持続意識によって想像し創造されたもの——M——を、切り開き私のいっさいを入魂してゆくことであり、またこれにはある職業・ある立場・科学単独・など”私という主体”と切り離されたものではなく、私の総体によって時間や空間などを超越して全身全霊で事にあたることで獲得される。
 イマジネーションは受動により生起するものであったが、インスピレーションにおいては自らそれにたいして能動とする。本来は加齢や経験によって自らの総体であるエネルギーが大きくなることから負荷が増加する。増加するほど防衛機制が働き能動になりえずイマジネーション止まりとなりやすいが、そうしなければならない状況に起因してインスピレーションに至る。このことから習慣病など加齢とともに病となるのは溜め込み続けているものにたいして、手放したり切り開くことが欠けているということがわかる。

 思春期における”アイデンティティの拡散”は、その人その環界自体の”M”からの卒業、インスピレーションによってサナギから蝶になることである。たとえば音楽家 尾崎豊の『15の夜』や『卒業』が想起されることだろう。

例 イントゥイションへの移行において(例:優しさとはなにか)

 男系社会生命樹のように、親は父性である峻厳と母性である慈悲を子にたいして与え育む。私の子自らが自らに由って”M”を切り開こうとしているインスピレーション途上である生長期の子どもであったり、子である私の内なる「やってみたい」という希望の灯にたいして親が自由を与える行為は当に移行期である。ナンパ師が100発100中といかず失敗を積み重ねて成功確率を高めてゆくように、インスピレーションを通して直観が冴えてくる。
 このことからインスピレーションとは”内省”、自らを切り開き省みる行為であることがわかる。

イントゥイション 直観性(直感性)

図3 イントゥイション 2024/11/14 Shinji-Fukuyama

核となるものは素直さである。
研ぎ澄まされた結果として金属に光沢が生ずるように、段階を踏まえて「ああ、そういうことか」と腑に落ちる。

  • Into
     In-to
      →私のある空間の内に
  • Intuit
     In-tuit
      →私の内にそれを直に経験する
  • Intubate(挿管)
     In-tubate
      →私の内に管を挿す
  • Tuition
     Tuit-(t)ion
      →直に教える性→教育者(自他問わず)
  • Intuition
     In-tuition
      →私は私のうちに経験したことを、私へ直に感じ観て教える

 イントゥイションとは私が私にたいして直に感じたものや直に観たものといった経験を、インスピレーションにより採光した質量に応じて自らにそのまま教える行為である。素であり直であること、つまり素直さと言い換えることができ、明晰な(透明度合の高い)内界といえる。
 存在にたいして感覚し知覚することは同じだが、既に自ら解明されていることから途中式を踏まえず”わかる”ことである。本来、人は人工である社会の子でなく自然の子であるから自然のことは子どもがよくわかっている。社会の中で過ごすほど社会の子として生長し、文明文化といった自然と共存しうる人類自体へと生長することを志向する。

例 私という主体を”電気を媒介した振動音自体”としてみる

 私が出力されるまでの間に抵抗という、右往左往せねばならない回折した道が存在する。しかし考えてみると、直線状に道を切り開けばいいだけのことである。

 電流であれば直線経路ということができる。ギタリストの足元にはギターの素音を加工する装置であるエフェクターが並んでいる。電流はギター→エフェクター→アンプ→スピーカーの順に流れる。エフェクターが在ることによりエフェクトを使用しないときでも、独立した電気を有している不要な回路を通すことから電気抵抗により音は減衰する。本来音楽自体に電気は不要だが、時代の進歩により音楽家たちは道具であるエフェクターを表現手段として数多く媒介するようになってきた。媒介が多すぎると減衰甚だしいことからそこで開発者たちの考えた結果がトゥルーバイパス機能である。
 エフェクター内の基盤構造は迷路のように、直線でなく歪みをもち回折した結果として音に効果を付加するようになっており、この機能を搭載したエフェクターであれば電車の車線切り替えのように、オンオフの切り替えにより迷路に通す信号と迷路に通さず直線状に通す経路の二つを設けたのだろう。

 この考えを再び現実の人間としての私に書き換えてみると、あることに専念して”私自身に操作されている僕”と本来の私が在ることが以下のことからわかる。

イントゥイションのその先へ(例:ゲームにおける転職1)

図4 ゲームにおける転職1 2024/11/14 Shinji-Fukuyama

 一つの事を徹底的に成し遂げようとするとその質量差故に周囲と単純比較が不可能となり、石の上にも三年と云うように経験値が指数関数のように飛躍し続けている。その閾値に達しながらも究極を目指すことを業という。ものづくりの職人のみならず研究者であれ奏者であれ同意であり、職種でなくとも継続してきたことや習慣も同様だ。自らの領域内においては困難が現れても経験の総体、つまり応用域が広いことから解決策を見出しえる。しかし日常の変化が乏しくなると啓けた智は変わらずとも、私のその一段上にある抽象存在は陰気を帯び始める。

 図4の図中左であれば、いま私はレベル60の治療者となった。レベルは数量の性質を有するので年数と捉えなおしてもよい。魔術師においては過去20年間経験したことなのでその20年間の内実、つまりインスピレーションといった質に応じて魔術自体に関わる解決策は自らイントゥイションにより見出すことが可能である。また魔術師としても治療者としても20年間ずつ経験したことは、図中右のようにそれらの職種である以前に私の一部であるから私の”経験の総体”として還元されており、またこの操作されている”ゲーム内界にあるプレイヤーとしての僕”と”ゲーム外界にある操作する私”は別である。

イントゥイションのその先へ(例:ゲームにおける転職2)

図5 ゲームにおける転職2 2024/11/14 Shinji-Fukuyama



 これを別のある領域に転じて再び一から始めてゆくと、既に獲得された経験と似た事象が現れる。つまり全く別の分野であっても獲得した経験は、そのままとはいえないが加工することにより式は転用可能である。それは先に述べた通り魔術師や治療者である以前に”ゲームの外界に在る操作する私”がそれらを内包し、私自体の力が働くためである。

 魔術師からヒーラーへ転職すると後方で魔法を使うことは一致しており、また魔術師から戦士へ転職すると攻撃職であることが一致している。そして元を辿れば魔術師や戦士である以前にどちらも私が操してゲーム攻略の仕方がわかっている。
 私が初めてそのゲームを体験し魔術師になることと、60年間の経験を基に改めて別領域である戦士として始めることは同じではない。これは私自体に働くイントゥイションということができる。

統合

 以上のことからエネルギーにおいてはイマジネーションの質量→インスピレーションの質量→イントゥイションの質量が積み重なり反映されたものであることがわかる。イマジネーションとして自らのウチに16タイプの人格が存在するのであれば他者に対しても16タイプの人格が反映され、自らのウチに60干支の性質が存在するのであれば他者のウチにも60干支の性質があり、四柱推命であれば60干支は年・月・日・刻であるから、それぞれの組み合わせに応じて幾千幾億の性質があることがわかる。

 つまり私は想像を継続したことにより段々と形象がハッキリと具体化されてゆき、直に経験することが可能となる。この獲得された経験の総体によって予測が可能となる。
 もちろん世界に完全なものは存在しないことからこれらもあくまで確率論にすぎない。その獲得を経てもまたより難解な次の問いが生じえるし、その獲得式自体が誤りであることも大いにある。なので常に自らにたいして仮定であることに留意しつつ自らの式を構築せねばならない。

物理学における物から人への昇華

 これらは物理学における光学に言い換えることができる。これら弎式を再定義して光学に転用してみよう。

意識光(意向)の定義
  • (枠組みである式構成のための)空間・時間=対象にたいする持続意識の測定区間
  • 光=意
  • 力=精神力
  • 質=一つ一つの経験の内実
  • 量=質を獲得した数量
  • 入射角=意の構え方
  • 媒体=1.想像力・2.霊力・3.直観力
  • 屈折=偏り屈し観るほど屈し折れた像が映り、素直にみるほど素のままの像が映る
  • 反射=遠近・左右・上下・など、反転された像があらわる
意の照射

 意識することは能動であり、各感覚器を肉体における媒体として光を照射することである。意識における感覚器を昇華し換言すれば、哲学であれば私がシュタイナー思想やゲーテ思想を学び有していることによりそれぞれ”知覚器”に内包され、それぞれを外界に知覚することが可能となる。元を辿ればシュタイナーもゲーテも欧州圏でキリスト教信仰に縁深いであろうから、両者知らずとも対象のうちにキリスト教自体を直観することができる。

 照射とは光が対象に向けて動くこと、つまり照らす射すことであるから”力の向き”が存在する。この”力の向き”は、それぞれイマジネーション・インスピレーション・イントゥイションといった力を通して対象へ照射される。太陽光の力を収束した虫眼鏡によって火が生じるように、他者に熱い眼差しを送れば視線を感じる者があり、喧騒の中でも相手の声を聞こうとすることによって聞こえるように、これらは外在のものに対して意識光の照射により生起する反射の結果である。

 自らの皮膚感覚でたとえれば、片手に向けて距離をおいて人差し指のみ向けてみる。人差し指を上下左右に動かしてみる。視覚を閉じて同様にやってみると実感することができる。「人に指を向けるな」とか先端恐怖症者はこれを知らずとも無意識に理解している感覚であることがわかる。
 これはもちろん感応力ほか諸々の条件により異なるが、”知覚器”においては知り覚っていることからわかるので、知らずとも若いうちから感覚だけで獲得している者がいてもなんらおかしくない。獲得順序が異なるだけの話である。

イマジネーション

図6 想像力 2024/08/15 Shinji-Fukuyama

 人は視界に捕捉しているもののうちから見たいものを見たいように取捨選択している。つまり存在を感知しているものの、それらのうちからどれを意識しようかと無意識であっても私自身が決めている。
 心理や社会に興味関心ある者であったり日々の機微を知覚しようとする者は、あらゆるものからその性質を自らに摂り込む。これを高次における摂食2、光においては集光という。つまりレンズに対象が映るには先ずレンズに光を摂り込まなければならない。

例 交差点1

 人通りの多い交差点であれば、お金を意識していれば金銭価値の高そうなものに目が向き、社会を意識していれば人々の顔色や姿勢に目が向く。

  1. 「話によるとお金持ちは、服装は安価なものをつけ、歩き方はゆったりとしており姿勢よくまた清潔感を有する」
  2. 「どうやらそうでもないようだ。今のところその確率は二割程度である。」
  3. 「実際のところその情報はその発信者のいる都会において正であるかもしれないが、ここは田舎である。」

 このように外在情報を自らのウチに溜めこみ、その情報を基にインスピレーションを通しイントゥイションを通し一段昇華されたイマジネーションへ派生することである。これは文章の推敲や刃物の研磨と同じだ。

 この”意識の光”は自らの獲得し積み上げてきたイマジネーション経験の質及び量により、赤色の光に黄色や青色などが加わって光の性質は変化する。しかし私が見ている映し出された表象は、私のうちに閉ざされた観念であり、イマジネーションはやはり既知を超えて未知を明晰とすることができない。
 このことからイマジネーションの在り方というものは、レンズに装着するカラーフィルターと言い換えることもできる。

 つまり私の内的経験によって構成されている”私の意である光”が発する想像力は、集光したレンズにおいてそのうちから対象に集束する一筋の光を向けることであり、光という私の想像の照射が対象表面でたいていは反射ないし虚像が映し出されている。
 カメラであれば、採光を絞らずに解放するとf値が高くなるが、シャッター速度によっては白飛び写真になったり暗い写真となってしまう。

インスピレーション

図7 霊力 2024/08/15 Shinji-Fukuyama

 先の例では外在情報を基にして考察するに至った。インスピレーションにおいては私の総体を以て対象の環界へ能動的に切り込みを入れることから、その度合に応じて自明してゆくことにより透過度が高くなる。食事であれば、魚を焼くときに切り込みを入れて味付けをしみ込ませることであったり、大根をすりおろして”大根おろし”として空気にあてるその味わいである。

例 交差点2
  1. 「彼の服装や顔色、姿勢、立ち居振る舞いなどからして、恋人を待っているのだろう」
  2. 「しかしどうもソワソワとして落ち着かない様子だ」
  3. 「おそらく待ち合わせ時刻を大幅に超過しているか、結婚を申し立てする大事な日なのか、寒いから尿意を我慢してるかのいずれかである」

 自らの持てる意識総体を対象の切り開いた質量に応じて注ぐことができる。イマジネーションのみでも想像力を媒体としてその質量分の反射は為されるが、インスピレーションではイマジネーションの基に重複する。

イントゥイション

図8 直観力 2024/08/15 Shinji-Fukuyama
例 交差点

 交差点にいる彼らはその時だけそのように振る舞っているだけかもしれないし、そもそも私の体調が悪くてそのように感じただけかもしれないし、集中して観察すると思い違いだったということはよくあるだろう。それら見方は自らが創造した意識、つまり”意識の光”が対象表面で反射していただけだったということができることから、被写体は自らを映す鏡の性質を有していることがわかる。

 つまり私の築き上げてきた一つ一つの揺るぎない内実である質によって解明することができる。

 

結び

 直観力が高いほど、映し出される像は存在の本質そのものがあらわれる。素のものとはいえやはり私たち人間は不完全であることから完全を見出すことはありえない。天・地・人というように、私というヒト自体が細かな細胞により成り立っていると同時に、人類社会や地球や宇宙など自然によって内包されていることから一部のことしかわからない。文化や歴史、科学が積み重なりによって生長しているとおり、意識光は数字に一の位や十の位があるように円環により昇華されてゆくことも同様だ。

参考

英語辞典
Oxford Learner’s Dictionaries | Find definitions, translations, and grammar explanations at Oxford Learner’s Dictionaries

物理学
ファインマン、レイトン、サンズ 著 富山小太郎 訳 ファインマン物理学 2 光,熱,波動 | NDLサーチ | 国立国会図書館

参考になると思われるもの

ルドルフ・シュタイナー 著 高橋巌 訳 神智学 : 超感覚的世界の認識と人間の本質への導き (シュタイナー著作集) | NDLサーチ | 国立国会図書館

ルドルフ・シュタイナー 著 高橋巌 訳 いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか : シュタイナー著作集 | NDLサーチ | 国立国会図書館

仁宮武夫 世界心霊科学大系 第1巻 | NDLサーチ | 国立国会図書館

フレイザー 金枝篇 第1 (岩波文庫) | NDLサーチ | 国立国会図書館

蔵書(2024/6/10)

蔵書の傾向分析 日本十進分類法(NDC)|福山慎二Shinji.Fukuyama(INFJ・創作家・私的研究家)


2024/08/15~2025/03 記

脚注
  1. インスピレーションは霊性と記すか精神性と記すか大いに悩んだ結果、霊性とした。翻訳家もどちらにするか悩んだことだろう。漢字においての”精神”という二字を分解すると、精と神である。漢字においての”精神”に類似した概念には、精神・精霊・精子がある。つまり精細なり精密なり精妙なる、神か霊か子かとなる。おそらく神秘学類(神智学や人智学)では細分化されているだろうからご存知の方は読み替えていただきたい。 ↩︎
  2. 摂食とはなにかを式として内包した 腫れ物考|福山慎二 2024/11/28 ↩︎

本稿はAIを用いておらず、もし使用したばあいは使用したと記す
本稿を先に記述し続けておりながら投稿が前後することになった『文字派生考』にて、AIとの顕れ方の違いをみるために”Inspiration式”を交流し記したが、あくまでも使用例掲示のためである