まえがき

 ”代”という字について不思議におもったことがあった。ある音楽家の楽曲プロモーションビデオに携わった折、歌詞にある「言い換えられる」という字を「言い代えられる」と記しており、本人に確認したところそれで間違いないとのことだったのでそのように処置したが、本稿を書き出してみてようやく意図することを理解した。さすが、彼は言葉の魔術師である。

目次
  1. 君が代

君が代

 故事に”石の上にも三年”という諺があるが、この尺度を長くすると日本国歌の”君が代”に相当する。どうやら「君が代は」から始まるものと、「わが君は」から始まるものがあるようだが、前者について述べる。

 ”君が代”は5・7・5・7・7の短歌である。厳密にいえば字余りで、「さざれ石の」に含まれる「の」は無くとも支障なく不要だろうが、おそらく編纂者は編纂という論理的行為故に「の」という字を付け加えて次の文節までの字の流れを強調し、音読といった詠う者にでなく、読み流す者に理解されやすくしたのだろう。 言葉は一字一字の羅列から成り立っており、AIに音読させると味気無さがあるように、一字一字が有する音の組み合わせによって日本人は言葉の意味を選択判断している。音読による音の高低差や強弱といった音鳴りの美しさが「の」によって阻まれることになるが、国歌でなく和歌として、音読による音の流れ方や音の上下などについては末尾に記した動画の詠い方を御参照いただきたい。万葉集や百人一首のいくつかを散見するに、広く似たような字の付け加えがある。

 さて、海外では詩にあたるが、この和歌を詠った者がなぜこれらの語を選んだかを想像してみてほしい。

君が代は 
千代に八千代に
さざれ石の 

巌となりて
苔の生すまで

君が代
俳句として
字義解釈

 ”君”という字の用い方は中国語でなく日本語として、”大君”という天皇や将軍など大いなる君を指した御上にたいする名称、君の主を”君主”といったもので、国歌としての「君が代」に天皇崇拝だと反対される方もおられるだろうが、天皇家のみを対象とした賛美や祝い奉るものと断言するには難しい。特定の相手を指すもの、または名前の語尾に付けて同輩や後輩といった縁あるものにたいして付け加えるものであるから、時空間を問わず敬愛するもの、親しみあるもの、にたいして”君”を用いる。

 ”代”という字は、”弋”にたいして人偏を付け加える。これは喩えば”依”という字は依存や依頼といった、人が対象に寄りかかる意味で、人偏を付けない”衣”には衣服が挙げられ、”裸”が衣偏であるように着るものである。
 話を戻して”弋”とは、対象にたいして投げ縄をかけるようなものなので、人偏が付いていることから人が携わっているある行為である。”弋”は”式”や”弌”、”弐”、”弎”などと同じ構えをしておりまったく同じ形象の理論である。喩えば”式”であれば、すでに投げ縄でとらえたもの、内在したものといったあたりで、その内にとらえた”工”は工夫・工面・細工というふうに、投げ縄でとらえたものにたいして手間暇経験による手段や手法といったある一式を指す。

 「君が代は」の”君”という単語と”代”という単語の間に平仮名が混ざる。日本語の文法として、「君が」は主語であり、「代は」は主題となる。仮に、訳す際に「君の代は」とすると”代は”にたいして”君の”がかかるので意味が異なる。たとえば映画『君の名は』を『君が名は』とするとまったく意味が異なる。よって「君が(~○○~)代は」となり、言葉の意味を引き出そうとすると○○に語を当てはめる必要がある。

 さざれ石は”細石”と書き、似た言葉の流れをもつ、さざ波がある。どちらも名詞である石と波を省いてみると、”さざ”は共通で細いや小さいことを指し、残る字は”れ”である。”れ”から始まる言葉は、礼・歴・列などであり、”れ”で終わる言葉は、キレ・ハレ・ヨレ・ワレ・稀・流れ・あはれ・謂れ・己などがある。”れ”の文字は音としてたいてい”流れゆくもの”を抽象的に指すのではないか。

 短歌のさらに短い和歌は、5・7・5の俳句である。以上で一度区切り、解釈すると「敬愛するあなたがつかもうとするしるしは、幾千の小さく細かい石となる。」となる。そして、”の”があるので後の文節に意味を繋げる。
 「しるし」と訳したのは、理想や目標などのしるしを想い描かないことには辿り着くことができないことからであり、目的地無くしてそこに至る道がないことと同じである。

俳句から短歌へ
字義解釈

 ”巌”はけわしく切り立つ山であるが、この漢字は複雑な構成で上中下の三つに分かつと、山の配置は冠のように上に位置し、けわしい山を直接指示しているのではなく指示した対象を内包する概念としての意味である。仮に山を伝えたい本質として具体的または物質的に指す場合、山を先に述べた”依”のように右側または左側に配置するか、”墓”のように中央または下方に伝えたい本質、画を配置する。けわしく切り立つ山を具体的指示するのであれば、”嶮”の字を用いてまったく異なる短歌となっただろう。

 ”巌”の上部に位置する”山”を取り除くと、”厳”であるから厳しさ・厳顔などであり、二つの”口”と片流れの”厂”は”敢”に掛かっているのでこれを除くと、下段には”敢”が残り、この字義は勇敢・敢えてなどである。敢えてそのけわしく切り立つ山に喩え、巌となる。

 ”苔のむすまで”は文字通りである。自然豊かな人気の少ない山へ散策に行くと、川の近くほど石は滑らかであったり苔が生えていたりする。苔は植物のうちでも小さく弱く、土でなく石に生すまでは時間がかかり、水気のないところほど苔は生えにくい。

 以上の7・7のみで解釈して再構築すると、意味は前後して「苔の生す永い時空間座標(ある時、ある場といった四次元以上のある座標地点)まで、けわしく切り立つ山のように」となる。

短歌再解釈

敬愛するあなたが 描き掴もうとする理想へのあなたの道標は
千の代 八千の代といった幾千数多の道標に
歳月とともに風化して小さく細かく流れゆく石のように

それらの石はあなたの最も低き場へ集積してけわしい山のようになり そして
苔の生すほど永い理想成就の時空間座標まで

『君が代』 再構築

 石が小さく細かくなるためには永い年月を経て風化や摩耗、浸食が挙げられる。重力圏下においては石も例外なく上方から下方へ転がり落ちてそれら一つ一つによって巌となるのだから、川に流されゆく石、果ては砂にでも喩えようか、人のうちに積み重ねられゆく石(意思)はあなたの巖となり、それはまさしく経験の総体を指す。
 ある座標を指定していることから、「君が代」は一つの大きな理想や志、より抽象化すれば死や完結を指し、そのもとに幾千数多の経験を積み重ねることを指している。よって君が代は死生を詠うものであり、具体的にはあなたが達しようとする願いの成就を詠ったものである。老子の唱える「道」のように、ある大志といった理想を描くと描いたことによって具現化され、その理想までに至りそうな揺らめく道が現れる。
 最も低き場へ集積という表現が指すものは、水は上方から下方へ、固体は力によって動かされることにより動きにくい場所へと落ちとどまることを指し、社会文化的に喩えれば、言語や風俗は都から遠い地方集落や山間部へ流れ着くことと同じである。 

 「君が代は」と「千代に八千代に」の二つそれぞれに含まれる”代”はそれぞれ意味が異なる。後者は前者にかかる意味を持っており、抽象化してゆくと前者は一つの揺るぎない存在、つまり理想、そしてその完結である死によって個人の描いた理想の完成、そのもとに幾つもの理想成就がある。前者にたいして、ある時空間座標を指定していることから死による完結、君という物語の終わりである個人の完成と言い換えることができる。また、桜は咲くから美しいのでなく、散って咲くことに美感がある解釈もこれにつうずる。
 死による完結を以て苔の生すことは、自然観察をすればわかるように死から生が生ずる。東洋思想に内包される魂魄論的解釈をすれば、霊的に、魂は天へと戻りまた新たな生を待ち、魄は生者に意志が受け継がれるように地のうちで霧散し分魂される。

 決して単純に死を助長することを言っているわけではなく、日本の民族性、人間とはどうあるべきかを示しているのであって、私による幸福に包まれて自然と死を迎えることが人間らしい死にざまである。
 時間は不可逆だとされるが、私による私の理想の死にざまを描き捉えることによって、その過程である生き方は継続するかぎり自ずと選択されゆく。理想の死にざまを先に定めるのだから当てはまらず、成し遂げられた理想は科学がそうであるように後世の人々にも広く薄く還元されるものである。

さらに読みやすく解すると以下のとおりとなる。

敬愛するあなたが描き掴もうとする 理想の死といったあなたの道標は
幾千数多の過去の偉業一つ一つによって成就する

君が代解釈結

 このとおり、「君が代」は讃美のうたでも恋のうたでもなく、「少年よ大志を抱け」という諺があるように特定個人を指さずに不特定とすることから、国歌として用いると広く多くの個々人を励ますものである。そして、理想の死を定めて過去現在の経験を積んでいくことから時の逆流である。
 現在の日本国憲法は日本国民のみにかぎらず諸国民の平和や安寧を唱えるものであり、この思想は時を遡れば大東亜共栄圏や八紘一宇、大一大万大吉と同じであるから、日本人の思想は今昔変わらず共存共栄の思想である。「現在の日本国憲法は戦勝国が作った憲法だから改憲すべきである」という見解もあるが、時代を問わず一個人や一社会、一民族の栄光といった強弱や勝敗が生まれてしまう一主体でなく、私は国家の垣根を超えた全体でもあるというように、細胞一つ一つが人体を構成するように、日本民族思想の示すものは”私=全体”、または”一=全”である。これは陰陽論では太極、論理学では抽象である。アニメ『コードギアス反逆のルルーシュ』で、主人公ルルーシュの「日本人とは、民族とはなんだ?言語か?土地か?血のつながりか?」との問いにたいして、スザクは「違うそれは心だ!」との答があるがまさしくそのとおりである。天皇家は日本の頂点であるから日本民族思想そのものであり、国歌として「君が代」が選ばれていることに感嘆の念を禁じ得ない。

終わりに

 日本語には漢字にたいして音読、平仮名があらわす音を視覚的聴覚的に読解するから、それによって音が同じものは抽象的に、たいてい互換することが可能だ。たとえば石を意志や意思あたりと読み替えると、一見物質性が高い短歌は案外に非物質的短歌と成りうる。漢字という画を知っており使うことから漢字の画に囚われて意味解釈が変わるので、日本人的には視覚でなく聴覚、流し読みでなく”こころのうちで声に出し読む”といった音解釈で可能となる。また、漢字の元はたいてい象形文字であり画であるが、ひらがなやカタカナは画というよりは音であり、音読は音の連なりで成り立つ。
 和歌は日常会話と異なりあえて詠う行為も相まって”ハレ”である。言葉を〆てしまうと、”ケ”である現実、俗に戻されてしまうから、言葉をなるべくふわっと抽象的に用いて〆ないよう心掛ける。文節を前後すればまとまりも締まりもよくなり具体的となり明確となるがそれを好まず、日本人がモノを強く言い切らないことと同じで老荘思想のようなものである。

あとがき

 このようにまとめてみると、巷で云われるように昔の日本人死生観は死を”聖なるもの”、つまりハレとして扱っており、葬儀後の会食で故人を偲びつつも賑やかに酒宴をして死者を悲しませず喜ばせた時代を省みると頷けるものがあるのではないだろうか。ある人が死者となってしまったことを悲しむことは生者の都合であり、死者からすれば悲しまれるより私の死すら人生の養分としてほしくもあり、死者を主体とすると、悲しまれると私も悲しくなるのが人情であるからそれなら酒宴で賑やかにしてほしい。言い換えれば親は子の依存を求めておらず、逞しく巣立ってほしいと願うものである。

 死から生があるが五行説的に考えてみると、木(生)→火(旺)→土(埋没)→金(固)→水(死)→木の繰り返しとなる。日本社会の年齢観にあてはめれば、木(~12歳)→火(~24歳)→土(~36歳)→金(~48歳)→水(~60歳)となる。このあたりは次稿に持ち越す。

参考にしたもの

日本語文法を基礎から解説。構造と基本ルールまとめ – 文章教室「文亭(ふみてい)」 (fumitei.jp)

参考になるもの

コードギアスの抜粋 日本人とは、民族とは何だ – コードギアス用語集 (wicurio.com)

上記の全文 コードギアス反逆のルルーシュR2第8話「百万のキセキ」 | アニメフレッシュエクスプレス (ameblo.jp)

日本国憲法 | e-Gov法令検索

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