媒体は
右に左に ながされて
私はあらぬ
空の气なれば

筆者 2024/10/18 喫茶”地中海”にて
まえがき

 今年のある夏日の夜、急遽姉と父親に連れられて米国映画『ツイスターズ』を映画館で鑑賞した。これは米国においてハリケーンという渦巻の自然現象に挑む話だ。鑑賞よりしばらく日が経ち、喫茶”地中海”で熱い珈琲を提供されたとき、珈琲の水面上にある珈琲の粒子が無秩序ながらも秩序立った渦巻が見当たる。この渦巻は熱が冷めてゆくと発生しなくなる。また紅茶には渦巻の発生がみられなかった。これは別日でも同様の結果だ。
 家で飲むインスタントコーヒーや、スーパーで購入した焙煎豆をコーヒーメーカーに通してコーヒー飲料としても、渦巻は見られない。

 数の数え方というと、科学においてはアラビア数字が最も飾り気ない数自体といえるだろう。
 アラビア数字においては0~9を超えると10となり、また11~19を超えると20となる。つまり十の位が上昇すること、一周、一回転まわりきると10、20,30など、+10となる。地球の引力から自立して天方向へ回ってゆく特性、または楽な姿勢である寝そべる行為でなく苦な姿勢である重力に抗い立つ行為である。換言すればエントロピー増大則による螺旋や渦巻、逆円錐状となる。これらは正数の場合であって負数の場合は反転する。

 漢数字を扱うとどうしても漢字の形象を取り上げねばならなくなり、本稿の意図する主題である数構造から逸脱する。数自体を語るに説明しやすいであろうアラビア数字があらわす数の性質を、いつの間にか主題とすることになっていた。なるべくわかりやすく秩序立て各項目を設ける努力をしたものの、やはり創造力が窮屈になり押し殺されてしまう。

 

説明

 この0地点においては意識が眠っている。または空や無の状態である。時が流れゆくように、世界が流れゆくように私も共に流れゆく。魚が水に生かされているように、ヒトも空気に生かされている。主体と切り離された客観においては0であり、主体と切り離されていなければ1である。


 たとえば、”私は通信機器のない10人の暮らす島に住んでいる”としよう。私は、私を除く9人が一致している判断にたいして否応なく、無意識下でその影響を受け入れている。島の掟に違和感は生じず受け入れる。

同類事例
  • 胡蝶の夢              (荘子)
  • 睡眠時における肉体意識       (科学)
  • 生命樹における王国         (神秘学)
  • 何不自由なく生活しているとき (キリスト教における楽園)
  • 道具や生命に共感しないこと(感性において他が存在しない。≠共感しないことを選択する)
  • 心に穴があいている感じ(既にあったものが失われたから穴を感じるので、10や100など)
  • 物足りなさ、切なさを感じる (同上)

問い

 この時点で問いは生じない。


10 (十の位は1,一の位は0)

図1 2024/10/7 miroにより作成 Shinji Fukuyama
  1. 私 は ある
  2. 過去は ある
  3. 自然は ある
  4. 夢 は ない
  5. 神 は ない

説明

 定まっていることは理においていっさいの原則であり、また仮定でもよい。この段階においては選択肢が存在せず、別の選択がみえない壁によって隠されている。他方があると想定しえない疑いようの無い事実化されたもの、つまり自らの観念、または自らの環界というべきか。一元世界であり、またそれらは習慣化された自らの内在秩序に従う。物理であれば、固体と言い換えることができる。


 「今夜は満月だから、海へ遊びに行ってはいけない」という判断が九人一致であれば、「なぜ満月の日には海へ遊びに行ってはいけないのだろう」という問いは生じにくく、また生じても持続することなくすぐに霧散、つまり”0”へ還る。仮に、八人が「行ってはいけない」と言い、一人が「行っても問題ない」と言っても、基本的には前者に倣う。

同類事例

これらは一観念における紛れもない事実であるが、どうだろうか。

  • 煙草は百害あって一利なし (神事や祭事、アセチルコリン受容体ではどう扱われるか) 
  • 一日三食腹八分を目安に食べなければならない
  • シャンプーは髪を洗うために毎日使用する必需品である
  • 電子機器は電気によって稼働する(電気とはなにか)
  • インターネットは実在である ((物質上において)媒体により映し出された虚の界ではないか)
  • ゴキブリや蚊の存在は、害であり益がない(ヒト社会を超えて、自然としてはどうか)
  • ケガレや闇はすべて存在してはならない(ハレや光はどのようにして存在することが可能か)
  • 情緒や精神はすべて、脳によって形成される幻影である(父母や子、友、恋人と育んだ情けや愛は幻影か)
  • 東洋科学や宗教はニセモノである(≠疑似科学)(聖書研究が根底にある西洋科学はどうか)

問い

神はあるだろうか。

夢はあるだろうか。

自然はあるだろうか。

過去はあるだろうか。

私はあるだろうか。

 これらは即答されうるだろう。たとえば有神論者は「神があるかと論ずるまでもない」と言い、無神論者は「神はない。脳科学的に証明可能である」というだろう。

 即答されない場合は意識することによって次の段階へ変化しているといえる。

10→11(十の位は1,一の位は1)

 図を描き始めるとキリがないので例としていくつか作った。

図2 2024/10/7 miroにより作成 Shinji Fukuyama
  • 私 は ある → 私 は 絶対あるのか?
  • 過去は ある → 過去は 絶対あるのか?
  • 自然は ある → 自然は 絶対あるのか?
  • 夢 は ない → 夢 は 絶対ないのか?
  • 神 は ない → 神 は 絶対ないのか?

説明

 この段階では、当然のことだと定まっていたことに問いが生じている。思惟することや問題に出逢ったとき生じるもので、確定されていた私の意識が何かしらによって影響を受けた。つまり動きが生じた。
 これは身体にたいして、筋肉のつけ方でも、知覚や反射なども同じである。動きが生じるとエネルギーの消費が高いことから疲れやすい。そしてその指向性のもとに動き続けることにより二分化の可能性が顕在化しはじめる。物理でいえば、振れ動く、つまり振動と言い換えることができる。
 


 ”10”の例では私を除く九人の判断が一致していると、私は問いを生起することが難しかった。きっかけとして三点挙げてみると、「特に満月の日はなにか体調がおかしい」とか、「特に満月の日は夢を見る」とか、「なぜか今日は満月の日のはずなのに月がみえない」といったところだろう。
 私のうちに問いが生じたことにより、九人の同一判断から分かれて新たに、生起ないし分離しようと試みる。

同類事例

これはあらゆる事象の初期共通項である。適当に挙げてみよう。

  • 細胞分裂をするときである
  • 植物の萌芽である
  • 愉しさや苦である
  • 通常のうちに異常が生じた
  • いつものともだちグループと日常会話がかみ合わなくなってきた
  • 肉体成長期の肉体と精神の乖離である
  • 反抗期の親子関係である
  • キリスト教であれば、エデンの園において知恵の実が意識に顕れたときである
  • ルドルフ・シュタイナーであれば、地球からの月の生起である
  • 仏教であれば、輪廻からの解脱を図ることである
  • 広義での”超越”である
  • 意志のはたらきである
  • 情熱のはたらきである
  • 火の性質である
  • 道である
  • 冒険である

問い

 さて再び同じ問いに戻ってみると微妙に視方が変わるようになる。つまり、隠されていたもう一方の選択肢が顕在化される。「ある、かもしれない」または「ない、かもしれない」というように変化する。

 神 はあるだろうか。「神はない」という人もいれば、「神はある」という人もいる。

 夢 はあるだろうか。

 自然はあるだろうか。たいていの人は「自然はある」というが、また一部の人は「自然はない」という。

 過去はあるだろうか。

 私 はあるだろうか。「私はある」という人もいれば、「私はない」という人もいる。

 これらはまだ即答されえない。既知に違和感が生じ、またその意識を懐き続けることによって”私のわからないこと”、未知があることがわかる。持続意識空間におけるイマジネーションからインスピレーションへの移行である。

21~22(おそらく)

図4 2024/10/7 miroにより作成 Shinji Fukuyama
  • 私 は ある(真) ⇔ 私 は ない(偽)
  • 過去は ある(真) ⇔ 過去は ない(偽)
  • 自然は ある(真) ⇔ 自然は ない(偽)
  • 魂 は ない(真) ⇔ 魂 は ある(偽)
  • 神 は ない(真) ⇔ 神 は ある(偽)

説明

 明確に意識されたことにより、選択肢の生成がなされる。今までと同じでよいのだろうか、今までと同じままがよいのだろうか、といった具合で、これに限らず思惟行為自体は未来に向いていることにより生じることが可能である。
 これは受動的には目的地にいく道中で道が二手に分かれているときや、「あなたが落としたものはこれですか?それともこれですか?」という二択があらわれたことにより選択される。一方を選択することによって、もう一方の選択が消滅してゆく。この現象は何らかの刺激を受けたことにより、私のうちに二択が生成されることであり、”不定の境域”をくぐり抜けて選択する。
 一つの扉を開けると、その奥に二つの扉があるといったところだ。

 

先ほどの例では三点挙げた。これを単純に当てはめてみる。
「特に満月の日は、体調がおかしくなる・体調がおかしくなるわけでない」
「特に満月の日は、夢をみやすい・夢をみやすいわけでない」
「今日は満月の日であるはずなのに月がみえないのは、気のせいでない・気のせいでないわけでない」

ではなぜかとさらに問うことが可能となる。
意識を持ち続けることによって1’から進行して二択化された。

同類事例

これは二項対立の基礎である。

  • 私は、ふつうであるか、ふつうでないか
  • 正しいのは、みんなか、私か
  • 今を支えるものは、過去か未来か
  • 祝祭日は、日常であるか非日常であるか
  • 本当の私は、鏡にうつる二人称とされる私か、一人称の私か
  • 進むべき道は、右か左か
  • 今すべきは、破壊か創造か
  • 万物の根源は、理か気か
  • ある気質は、陰か陽か


 さて、再び同じ問いに戻ってみると微妙に視方が変わるようになる。

問い

 神はあるだろうか。またその理由はなぜか。

  1.神はある→知っている・神はない→知っている

  2.神はある→信じている・神はない→信じている

 夢はあるだろうか。またその理由はなぜか。

  1.「夢はある。睡眠時にみるものだ」・「夢はない。変性意識の産物にすぎない」

  2.「夢はある。描きだすものだ」・「夢はない。描くことはできない」

 自然はあるだろうか。

  1.「あるかないかでいえば、自然(nature)はある」

  2.「(日本語において)自然とは”自ら然る”なので、ある」

 過去はあるだろうか。

 私はあるだろうか。

 問いによっては第三の答が浮上したり、間が存在することに気付く。


2024/10/07~ 記