まつりならいてつかえる
おのが士農工商の”士農”たらば、”文字”から”田”を耕そうと志す”士農士”へ贈らん
インターネットが普及してから2000年代までは特に、そのような人がネット上に多かった
2000年代半ばあたりから年々と公の場→閉鎖空間に流れた
今では色抜かれたものおおく似たものがふえ、その数量に埋もれたものがおおい
なにゆえ天の岩戸へおかくれになられたか あま照すはいつなるや
令和七年一月十九日
留意点
- これはあくまでいま現在におけるわたくしの発想法による私見図であり数あるうちの一つにすぎない
- 論理学における抽象と捨象(それとこれの、一致する点・一致しない点)を用いられたい
- すでに定義されていても時空間によって意味は変化していく
- 自国語に翻訳するときにもし適語があれば共通の理となるが、なければ雰囲気となり自国や自己の色となる
- ひらがな・アルファベットは連なり変化する意味の探求法、漢字は象形平面図としての派生解釈探求法
定義または解釈の方法
時空座標
いつの時間において・いまに至る通時において
いつの空間において・いまに至る通空において
その時空間において・いまに至る時空において
形象
字義・字体・音・など
1.このうち一つを考える
2.このうち二つ三つをまとめて考える
ひらがな 連なり変化する意味の探求法
漢字 派生解釈探求法
字体解釈 -壬 -士と土
序
私=ムに禾が掛かる
禾=木の実り
木=大が根差したもの
例:業=僕または㒒
例:本=木が地である一を貫き根差したもの(だろう)
考
字体から考えてみよう
壬=士の実り
士≒土
壬と王=士と土
・ノと一は似て非なる
・ノは流れ
・ノは气の性質を有するので定まることなきもの
・一は定りある
・文化の性質なき万物に一の定まりは存在しない
土
- “一である地”のもとに十であるか
- 二にたいして垂直に一線さすものか
垂直に一線さすもの例
”田”=申・甲・由・果・里
士
- “一である地”の下層に根差し地から少し出でるか
- “”一である地”の下層と地から出でた間”にたいして垂直に一線さすものか
- 土に比べれば足元弱いが、”一である地”より十の字体が大きものか
王
- 天の一と地の一の間に十であるか
- 一である天のもとに土であるか
- 三にたいして天から地の間に垂直に一線さすものか
壬
- もし士の1であれば、背丈低き植物の実りし状態である
- もし士の2であれば、天と通じている状態である
結
士が実りしものが壬である
実りしものは天地の変化や生命の営みにより変化する
よって、士は士としてつとめるように、壬は壬としてつとめることにより”壬の聖”となる
※聖=壬または王のもとに、耳と口をもつ
続 -王
王は、一である上・一である中・一である下に垂直線が加わり、実線上で交わることが可能となる
つぎに、”王”の字体に含まれている”三”とはなにか
一、
天地人=人は天地の下に生長するという神道やアニミズムなどの思想と仮定
=天を父とし地を母とする思想など
=逆三角形の配置で子を下方とし、上方左右を天地とする
→子は父母のもとに育つという解釈
一、
天人地=天のもと、人は地の上に生長するという理論
=天を父とし自らをその子弟とし、”地の支えである母”とする思想など
=垂直線の配置であれば、天子や君子という語のように、人は必ずお上の下にありそして下の支えがあることにより、その間にある子弟である私は垂直線上に人と人の間、つまり人間として存在することが可能となる
字義解釈 -読 -売
読=讀(旧字体)=売に言が掛かる
=賣(旧字体)=買の基に士を奉じる
=買
=売=買
=貝のもとに”口である界”を同位に四等分
=四等官と仮定(四気質かもしれない)
=罪=非の基に四等官
販=反に貝が掛かる
=ひく・さく
目=まなこ・かなめ
=四層に位を分かつ
=四念処と仮定(士農工商かもしれない)
賣=”動く四念処”の基に四等官があり士がある
=”動く四念処”の基に士=往生する士
讀=”往生する士”に言が掛かる
=”往生する士”を指し言う
参考としたもの
四念処 – 新纂浄土宗大辞典
四等官=律令制の官職
例 漢字における発想
大とはなにか
→一と人があわさっている
→大のうえに一をくわえると天となる
→大のうえに一のような”ノ”のようなかたちをくわえると夭となる
→わかい・うつくしい・わざわい
例 -象形解釈例
- 象形は図であるので数学のように二次元図・三次元図・四次元図とすると下位概念を内包し意味が変わる
- パソコン越しではなく、紙に書き、視座を変えると見え方が変わる(パソコン越しでは平面図でしかない)
アルファベット -連なり変化する意味の探求法
ことばについて
1 ことばは感じるもの(音)か見るもの(文)か
序
毎年旧暦10月は神無月と言いまして、神々はこの一年を振り返ると同時に来年を設計するために島根県出雲の国へ集まります。出雲の国では神々が集うことから神在月と言い、また人々は全国各地から神託や祈願のために来訪します。
本来私どもは八百万の神々が在る多神教の文化のもとに成り立っているので、動植物のみならず物やことばにさえ神や霊、魂を見出します。実際のところ”宗教”とは”宗の教え”でしかありません。”宗”とは示にウ冠が掛かります。
ところが実際のところは宗教と呼称されているだけで、道の要素が忘れ去られています。道と申しますと、仏道すなわち仏の道や、茶道すなわち茶の道のように、先生や師範を奉り、示し教えを受けるだけでなく共に果てなき形なきその道を歩む師弟として縁結ぶことにあります。ひとり独学独歩であれば苦難の道ですが道自体となり別系統が確立されますし、これは宗教創始者のみならず昔の研究家や発明家や創作家、創業家でさえ同じです。これを道志といいます。
ことばは妙味なものでこころの道具にすぎません。ことばの本質は争うために用いられているのでなく伝達手段です。ことばは思想の顕れであり、思念や想念を共通言語であることばと成しウチとソトの橋渡しとして発するものでしかないのです。これは人体における”道具としての手足”と言い換えることができるように、ことばは思想の道具であることがわかります。
ところでことばには言霊が宿るといいます。私ども現代人はことばに何を宿し、また見出すことができるでしょうか。
論
序
ことばの成り立ちとしては先ずこころという大器があり、器に水が注がれ保持したことで自念の獲得によりこころが実体となり、振動により点火し音となって意となり、意思疎通の共通音列に調律し、声を”象徴としてのことば”とし、ことば単体で視認できる”象徴としての文字”が成り立ち、そしてことば自体は音が失われたかわりに”よみものである文字自体”となり、文と化して文となりました。文明すなわち文明けること、文化すなわち文と化すことです。
赤子であれば、身体のなかでも発声器官を振動させて空へ私のこころを発し伝えます。老人であれば、ことばの本質がわかっているので抽象化されます。これは初対面の人と会話することや未経験に取り組むことも同じさまです。
しかし文字は音と切り離してしまうとその本質を——道端の草木や行き交う人々でさえ現象に過ぎない縁なき空虚なものに——記号へと変化させてしまうことから、音と切り離された文字は自らの心身で振動することなく絵を眺めている状態であることがわかります。つまり”音なきことば”という象徴の断片を記号化することによって文字は自他切り離され自らを映す鏡となり、この状態で感じ情けることはそれがなんであるかでなく鏡に対して自らの感情投影となることがわかります。
論 -音無きながしよみ
これは車でドライブをするように視覚をとおして意識に映し出される”文字の動画化”であって、多量の文字情報をさっと読み流すことを”速読”といいますが、川の流れが速くなるほど文字自体は空虚となり、その内包する意味つまり”文字ひとつひとつ”が失われます。単語や文字にたいする意識が薄く拡散しており、それら文字を内包している文章自体を読む行為にのみ注力されていることがわかります。
論 -音有り
家や学校などで文字を声に出して読んだ体験が少ないほど、自らに反響しないことばとなります。これはブラックホールの内へ摂りこまれる光のように一進性であって反射なく、自らと切り離されたことば単体に過ぎません。文字を読むのであれば、ただ知識という情報物質が手元にあるだけとなります。音と切り離されていなければ、両親が心配して声かけたことばや行き交う人々でさえ記号でなく、自然現象としての存在があらわれます。
たとえば、論文であれば「~である」「~だ」「~だろう」など言い切ることばを用います。この言葉遣いを体験でなくともせめて発声しない読み物として経験しているほどに、主張の性質を持つ言葉遣いであることがわかります。
結
以上のことから発声器官が想いを発する道具であるように、道具としてのことば自体には良し悪しなど初めからなく固有の色を帯びたものであることがわかります。色は文化や個人特有のものであって、これもまた良し悪しなどありません。これを多色、つまり多様性といいます。
参考になるもの
貝原益軒 『大和俗訓 和俗童子訓』
参考・使用
ソフトウェア
Miro
辞書
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漢字辞典オンライン
12/22- 記