個人における認識座標図
最近話題のAIロボット開発において、人に似れば似るほど愛着が湧くが一定ラインを超えると不気味に感じ、その不気味の谷を超えたときにより一層の親近感を感じるという、ロボット工学に”不気味の谷現象”というものがあり、この概念は人間同士に当てはめることができる。
目標をもつことが正しいかはさておき、私がある志の向きを以てDという目標を見据えるとどのように変化するのだろうか。現代は高度高速情報化社会なのでその情報伝達の早さから外界知覚が多大であり、自己の確立は遅くなるり、自分自身より世界に重きを置いている人が多く見受けられる。多様性というものを内から築き上げず外から見ようとすると、流れの早い川に流されるように困惑するばかりだ。
時間停止時における認知
図解
他者に対して好き嫌いといった快・不快の縦軸とその者に対しての認知度(知覚度)を横軸に図へ当てはめた。快・不快の感情を懐くということは無関心や存在の非認知とは異なりある程度その人のことを知っており、その人に関する情報が増加するにつれて快・不快の知覚が増す。斜めに入れた点線→にあたり、これを志向性という。
私(身体的ではなく心理観測的1人称視点)が一つの志向性をもっている場合、他者A,B,C,Dに対して知覚する内容は異なる。Dに対しては畏敬の念を抱き、Cには不気味さや恐れ、居心地の悪さ、Bには大いに尊敬、Aには尊敬よりは親近感を抱く。
二人称において、私に対する他者からの見え方も同様で、AやBからみて私は親近感があり、Cからは今どきの若者はと皮肉めいた見方をされたり、Dからは若芽としてこれからの成長を見守られる。このあたりはまたいずれ機会があれば記す。
例題
”私からみた外界”にあてはめる場合
私(I)を新入社員とした場合、Dは社長でCは厳しい部長、Bは上司でAは同じ平社員の先輩のようなもので、コミュニケーションの取りやすさであったり、知識や技術力の差であったり、人格の差であったりする。D地点にむけて私がなりたいとか出世していきたいと志すなら、途中経過のABC者はD者に長らく奉仕しているので順序良くAの理解から進めない限り難しい。D者に興味(志向性)がないとその組織の会社員としてABC者を理解することなく仕事は面倒なものだと決別する。
”私からみた内界”にあてはめる場合
Iを今の私の現状としABCDを他者ではなく人生における途中経過地点とした場合、D地点という目標に達する人生の軌跡に例えることができる。少年よ大志を抱けという諺(ことわざ)はD地点を視界(認識)内に収めよという意味で、D地点を見据える限り、無意識下においてもその志向性に従い駅と駅を繋ぐレールという線をひく。もう少し具体的に云うと、自己表現をしたいとかステージに立ちたいとかモテたいという目標がある限り、ギターを購入し弾き始め、気の合う仲間とバンドを組んだり自作曲に取り組んだりしてその目標を叶える。なにを目標にするかにおいて続く・続かないやアーティストになる・ならないと分かれる。
停止した時間で考えた方が複雑さはなく、白黒つけやすい。人間は生き物で内的・外的時間をもっており、それは他者においても同じで、それらを内包する社会的時間があるので、停止し固定したこの図では説明が足りなくなる。写真や彫刻といった非生物(死物)でも対象の外的時間(食品を真空保存や冷凍保存しても状態が変化していく)は存在し、観測している者の内的・外的時間の経過によって見方は変化する1。
時間流動時における認知
先ほどの図では時間が停止していたが、こちらではもう一段階現実味をもたせて時間が流れている状態である。私が生きている限り、ものの見方や考え方は常に変化しており、それはある問題や他者、世界においても同様だ。つまり私が考えたり動いたりしている間もABCDが生物であれば私と同様に生きており、死物であれば私の認識だけが動いている。
例題
”死物”にあてはめる場合
Dという目標は動いている。Dが動くというよりは、私が日常生活をあれこれしていると目標は容易にみえたり難しく感じたりする。私が線に沿って近づいている状態だとAはいつの間にか過ぎ去っており、Bという全能感になる。ただ人生は山あり谷ありというように、Dを眼前にしたときCへ下降する。古代において、バベルの塔の逸話があるように下降は避けられない。D地点を平たく見積もり、感情や活動といったエネルギーをほどほどにすることにより上下幅は減少するが、Dという目標達成の実感も薄くなる。
ある資格をとりたいと目標を掲げると、資格取得難易度を調べたり過去問題集を解いたりする。難易度が高いことがわかると目標はより遠くに見えるが、過去問題集を解いているうちにDは以前と比べて近くに寄っている。
”生物”にあてはめる場合
死物の反対に生物というと物質的生き物を想像しがちだが、感情や信念は不変ではなく生物だ。写真の一コマと違って生物を常に絶え間なく生まれ変わるものとすると、感情は常々内界と外界からの刺激をもとに表現される水的性質であり、信念は石的性質をもっている。
俯瞰における認知
この俯瞰の概念は囲碁や将棋のように、即時修正が求められることに取り組むときに使用しており、身体感覚を超えて一人称から三人称へと変わることを客観視という。図1、2と比べて段々とリアルタイムという刹那時間に移っているので、身体をもつ私とそれを俯瞰する私(以下I´とする)とに分かれる。
俯瞰の概念は霊性に属している。私とI’では受容する知覚が異なっており、私は身体感覚器による知覚を基にし、I’では自身を含む他者や社会を時間・空間に囚われず観察し思考する。I’は特に社会学や哲学、宗教、自然を大事にするような類の者や老人は、対面して話しているときでも会話が一手二手飛躍したり心ここに在らずというもので、会話の手応えがあまりない。常々私とI’に分けて生きることはエネルギー消費が激しく、枯渇した状態で俯瞰を続けてしまう場合は負の念にかられて世界が暗く視える。
例題
内的
離人症や多重人格と呼ばれる類の者はこの俯瞰が周囲の人たちより卓越しているからで、なんら病と恥じることではない。この扱いに長ける者は内的処理が得意なため、他者より苦難に耐えやすく疑問を生じやすい。身体をもつプレイヤーとしての私(I)が痛みに遭っても意識を俯瞰に移すことにより痛みを切り離したり分担したりする。あまり気乗りしない飲み会であっても、本来思考に用いているエネルギー量を減らして言葉を返し応答速度を上げる反面、俯瞰による私は早く帰りたいとか休日の予定はどうしようとか考えたりする。
外的
外的処理としては戦場における司令官、または年末年始の忙しい接客業の長のように、従者の性質に応じた適材適所や補欠を埋めるように将棋の駒とする。互いに信頼関係があれば難から脱しやすく、損耗も最小限に止まる。つまり個人における自由権の一時的譲渡で、端的に云えばリーダーシップである。他者に対して指示や注文をする者は、それが的確であるかぎり課題解決の最短ルートだが、俯瞰と個々人の多様性の理解を以てその問題にあたらなければ見当はずれの方向へ進むことになる。個々人の多様性の理解については先日記したものをご覧いただきたい。
人によって俯瞰力は大小異なるが、生まれゆく若者ほど時代の進歩としてその性質は増大している。衣食住の安定供給に伴い、身体感覚を以て生きずとも労せず簡単に生存することができるようになったことによる。ただ社会というものは人と人の助け合いが根本にあるので、俯瞰力は持てる力の一指標に過ぎず、身体感覚を以て体験できたことがある種のロストテクノロジーの如くなってしまう危険性は注意されたい。
おわりに
この図では青色の私が赤色の私時点を振り返ったことにより、そのときの状況が簡単に俯瞰できる。予習や復習といった事前準備、事後反省は俯瞰を獲得するためにある。いま現在と過去を比較したときに、省みることによりそのとき直面していた問題の大きさが解ったり、他者の人生の軌跡を振り返ることにつながる。
人は生きている以上、ある志向性を以て取り組むことにより概念のうちに自他を規定する。もしくは気付かぬうちに規定されている。他者や世界、私は一つの志向性だけで成り立ち認知される存在ではなく、複数存在する見方の一つとして当記事、前記事を記述するに至った。会話における老人のレスポンスが一般的にいまいちなのは、一人称で対処しようとする身体感覚ではなく自他を含む三人称視点を以て応えようとしているからで、なんら異常なことではない。
脚注
- 対象の探索行動を経るたびに、自分の認知や環境が改変されていく。例えばピラミッドなどの遺跡を理解しようとするにあたり、空から見ることと電子基板の開発の2点によって、遺跡は巨大な電子基板ではないかと、時代的見地が変わること。この2点がなければ巨大な電子基板という仮定を形成しえない。 ↩︎
参考になるもの
不気味の谷を引き起こすのは”未知への不安”であることを解明 ―人とアンドロイドが無理なく共存する社会構築への期待― | 研究成果 | 九州大学(KYUSHU UNIVERSITY) (kyushu-u.ac.jp)
KAKEN — 研究課題をさがす | アクティブサーチ:探索行動を通した環境改変と認知変容の相互作用の実証的解明 (KAKENHI-PROJECT-20H00107) (nii.ac.jp)