多様性の座標 -願い-
願いという漠然としたもの
人は皆、夢や希望、目標といった前向きな願いをもっている。これらは未だ達成されておらず、漠然としているので自身ですら”こうなればいいなぁ”と願ったり祈ったり空に描く。これを空想と云うが、もう少し具体化されゆくと理想や目標に昇華され、形象を肉付けしていく。
願いの形象は未来にのみ当てはめようとすると机上の空論のようにみえるが、過去を振り返ってみれば誰しも願いによって達成されたことが多いことに気付く。今日一日を自らの意志、または他意であれば他己を自己の意志に組み込んだり同調したりすることにより、充実して明日を迎えようとすることを続けると、今月は充実した月となり、年となる。その結果がいま現在を構築している。
過去に対して時空間や心的視座といった座標が変われば良いことも悪いことも反転しうるし、どちらに捉えても抽象度を一段上げると私が体験した出来事の一つに集約される。
願いは科学的・呪術的行いによって願いを顕在化しようと試みるものであり、それら努力や経験の閾値を超えると直感となり、直感を重ねるうちに考えずとも経験則として直観となり、最短経路で答に辿り着く。料理をするときに野菜の切れ端がある場合、捨てる者もいれば勿体無いと出汁、糠床、肥料にするなど、その者の知識や創意などで異なる。”勿体無いから何かに用いることはできないだろうか”というのは願いで、願いがあるから試行錯誤して経験を積み、成功を幾度か重ねると類似の事例に中っても過程を跳躍して直観し、自己のうちに普遍化されてゆく。
本稿ではしばしば科学的と呪術的といった二項に分けたが技術としては同じことで、100/100の再現性を求める科学に対して呪術は10/100といったふうに分母に対する分子が異なるだけであり、陰陽のように元は一つであり偏ると誤りやすい。個人個人の按配差はあれども、その両方を以て願いに向けて尽力しており、どのような縁をもち自覚するかによる。日本は昔から世界の賢人たちが云う通り、科学的思考に長ける西洋人でも測り切れない玄妙な文化、思想を有している。近代化以前の日本文化にはひろく呪術的側面が垣間見られた。この半世紀あまりで日本人らしさのおおくが急速に失われつつあり、一世紀前や二世紀以前の日本人と比べてみると顕著に民族精神の喪失が否めない。これは現代社会が道徳喪失の病、敗戦の影を民族精神として今もなお引きずっていることにあり、社会的新芽である若者を安全や秩序の名の下に抑制していることで循環の悪化を招いている。
科学的手法
科学的というのは自らの経験則や緻密な計画といった論理式により願いの成就を試みるもので、「~かもしれない」と仮定を幾段にも積み重ねることに由る。1:を今現在の私と仮定してみると、願いが努力を要しない場合は:1≧となり、:1≦である:1.4や:1.6などは努力を以て成就しやすく、:16は成就し難い。美意識において1を私を含む同世代同集団の仲間たちとすると、私たちから見て1.4や1.6は比較して美しさを有しており、16ともなるとかけ離れているので理解しがたい。対人関係においても私を1とすると、1.4や1.6は理解の届くうちで、16ともなると理解するために努力を要する。
他者を私以下と見做すことは誤りで、他者にはそれぞれユニークな親がいて祖先といった、他者なりにこの世に誕生する以前からの縁があり、数世代も遡ると隣人や友人でさえ血の通った親類である。誕生してから出逢うまでの環境としては、衣食住の環境や友や師、出来事が異なり、それらに対する選択や想いは図ることができない。そして友人でさえ、何を目指しどう布石を打っているかまで推測することもできない。自らを知り敬って他を知り敬うことはできるが、親子夫婦であれ人と人の間にある空間を超えることは容易ではない。
上図はイメージしやすいように作ったもので、数字や大きさは適当ではない。
例題
心理学
私が心理面から大学の学問をとおして他者について学びたい、とすると心理学に行き着く。それからまだ心理学への探求心があれば派生して人格心理学や社会心理学に行き着いたり、尺度を変えて対個人ではなく対集団といった社会学や文化人類学、宗教学へ行き着いたり、抽象度を上げて哲学や数学であったりする。畑の違う話と言われそうだが、人の心に対して理解したいという私の願いが根本にあり、心理学という眼鏡をかけ続けることは同線上を歩み、社会学の眼鏡をかけてみることは少しずらした平行線上を歩んでみることであり、それらの分化したようにみえる知識は私の願いという始まりと終わりの円的収束点に向かい、円のうちに蓄積され混じり合って知恵になり応用が利きやすくなる。収束するまでの過程において、平行線であった線と線は意図せず心理学と社会学の間の空間を形成して面を構成する。
哲学
哲学は哲学者が語るから哲学足りうるという式は誤りで、哲学を1:として哲学者を:2.8や:4とする場合、哲を学ぶ者は高校生でも、戦国乱世の12歳の元服の儀式を終えた者でも、賭博など投機的投資をする者でも自己なりの哲学があり、自己の経験を基にした言葉は1:8かもしれないし、1:64かもしれない。答えのない哲学を1:とする前提自体が試験官のような誰かによる仮定以外ありえないが、この場合だと1:64であっても歳月とともに推敲して万人に通ずる1.4などへ普遍化することが望まれやすい。
法学
モノゴトには必ず本末がある。赤子は身を守る術なく親に守られて未知に喜怒哀楽し、成長してゆくと自らのやりたいように軌跡を描いてゆき、他者とぶつかったり協同したりして他己を認知する。他者に我を通し過ぎれば他己を軽んじてしまう者へと育ち、我がなさ過ぎても長いものにまかれて従順となる。既存概念や自らに疑問を懐き多方面から観察し思考して挑戦し続けることにより、中庸や臨機応変を得て按配をとることができる。
憲法の基に法律があり平等があるが、法はただの概念であって初めからあったものではない。初めにあるものは個人であり、次に親子であり、次に他者、他己へと出逢う。法の基である掟は私と他を必要以上に争うことなく共同体にすることが基礎であり、自然と人間、国家と個人、公人と私人とに分けて争乱を起こさぬようすることである。
端的に
つまるところ1:?という答えがまず決まっていてそれに対する解釈なので、1の基準はなにかと定義することから始まる。この図では1にいま現在の自分を配置し、1:の右側にいま現在持ち合わせていない願いや理想の人物像を入れて大まかな大きさを測る。願いというと漠然としているので、”人に心から感謝していただけること”と定義するなら、人助けや人に仕えることであり、より具体的には立場の弱い人に与えることや希求している者との等価交換である。その助けとして科学という社会一般的知識面と、その個人が何を求め言動しどのような生活を営んでいるかといった個人特性の把握があれば、一般論から脱却して個人への適応化(パーソナライズ)ができる。科学は常に一般的であり普遍であるので、仮に各人が工場で大量生産されるような、無個性な科学一般人であるならばパーソナライズ化は必要ない。
社会一般的知識面で対人コミュニケーションをする際、年齢や性別、社会的立場や経済力、興味や会話のテンポを計りにかけて自他の相性を決定するだろうが、心理・社会を学ぶ者においてはMBTIや16タイプパーソナリティといった、より踏み込んだパーソナライズを学んでいる者であれば、先ほどとは別の思考体系である16タイプの属性に応じて仮定付けることにより協同が可能となる。
自己の存在を過去と今を比較して1:1.4として、今と未来を1:1.4とすることが自己の成長、つまり自らのうちの実践、科学というべきだろう。1から数値がかけ離れるほどに複雑さが増して手間暇を要するが、困難に打ち克った偉人たちのように1:64などから収束すれば力となって他者から見た私は1:1.4などへ昇華する。その果ては俯瞰する者にとって対等な存在としての十人十色や16タイプパーソナリティ、八百万の神々へと通ずる。
呪術的手法
呪術的というのは未科学であって神仏や食事に手を合わせたり御神籤をひいたり占ったり、明日の天気が晴れるようにテルテル坊主を作り祈り願うことで、呪術的傾向の者は先祖のお墓参りに行く時だけ雨が止んだり、芸術作品から作者の意図するあたりを直感したりと無意識下における自然との調和的行為者であり、1:を1と限定せず1~100:1~100というように定まることはない。1と限定しないが故に独自性によって解釈は無限大となって創造は容易いが、どこかの地点において基準を定めなければならない。人それぞれ生い立ちや願いなどがあるように、科学のみを絶対視すると必ず誤る。これには日本人は基本的に日本語しか読めないことから、国外の翻訳されず流入されていない科学を認知していないことや文化的宗教観の相違、歴史を知らぬ者は歴史的事実を認知せずに自らの体験や知識のみで語ることにある。未知は常にどこにでも存在する。
コンピュータではbit数が増すとともに現実性が増してくる。写真編集処理では8bitではなく10bitなど、bit数が上がるごとに滑らかとなり色の数が増える。10bitや12bitの画の制作、24bitや32bitの音楽制作はたいへん複雑だが、上げていくと現実との差が埋まってくる。視聴者側では再生機器や環境によって捉え方が変わり、個人個人でも身体的個人差、心身の個人差によって印象は異なる。色数に対する個人が認識できる違いとして、科学一般が8bitで認識していることに対して、呪術的な捉え方は10bitのように自由度が高い。
例題
想像力
孫子の兵法と同じことをいうが、仮に私が相手と比して1:1と等しくすると対等な関係となる。5:1とした場合は自ら驕り、自らの行いによっていろいろと問題が出てくる。反対に1:5とすると相手自身が驕る可能性があるが、それは他己に還元されることであって差して問題ではない。自らを低く相手を高めることによってのみ相手のウチに光を視ることが可能となる。
カメラでなにか撮りたいとおもうと、行動は言わずもがな何を撮ろうかと考えることが一般的だ。だが妙味はカメラを持ち合わせずとも、自身の眼をカメラだと仮定(同化というべきか)して焦点を目の前の木に合わせて背景をぼかしたり、直感からきた構図の美しさのうちに、操作できない動物が理想の位置に来た時の見え方を観察したり、物に頼らないことによって想像力が育まれる。撮影の前提条件であるカメラが必要だと考えることは1:と固定することであり、カメラがなくとも撮影のイメージトレーニングや予行演習などができるとする者は1:と固定しない。
アジア人には氣功や集団幻覚といった未科学的なモノゴトが知覚されやすい。科学先進国であるほど林檎は何色かと問えば赤色と答えることが一般的だろうが、赤色のうちにも種類は数多あるので村社会であるほど、または個人個人が十人十色のように独立した色への解釈をもっている場合には主題が1ではなく1~100:であり、それに対しての答えが:1~100など多様化する。具体的な問いほどそれに応じて答えやすいものはないが、抽象的なふわっとした問いほど解釈の多様性が生まれる。民族間においても虹の色数や雨の強さ、一音階を幾つに分けて認識しているかは全く異なる。「月が綺麗ですね」とか桜の儚さを詠う言葉のように、日本人には言葉の含みや言い回しが多く滑らかで、英語と違って主語もなくはっきりし過ぎないことを善しとする。
宗教との縁
宗教では多神教といったアニミズムにあたり、神は1以上なので多様性を良しとしてピラミッドの形状よりはなるべく平か円環であることにあり、公衆浴場では立派な服も貧相な服も脱ぎ捨て皆裸なので社会的平等、酒場ではネクタイを緩めて和気藹々と酔っぱらいの集まり、円となることを望むことに中る。会社も本来、社という部首は”示”であるから神や礼に通じて示す土場であり、一般的に見られがちな権威的なものでも無理して働く場でもない。
私は礼を説くつもりはなくあまり興味の比重を置いていないが、現代日本において信仰的行為や宗教的行為は忌避傾向が高く、食事や神仏に手を合わせることやお辞儀、「いただきます」などの言動は軽んじられつつある。
第二次世界大戦の戦後復興期に新興宗教が増えた。一因としては、過激に映る宗教団体がマスメディアをとおしてクローズアップされて非難轟々とされてゆくとともに、相反して宗教側も肩身が狭くなり過ぎたために、食に困窮した時代でいうところの百姓一揆のように、または孫子の兵法にある貯まりに貯まった水が機をみて放水されるように、不満が閾値を超えて濁流の如く発露した。
天皇という人神誕生から幕末や明治頃までは年々と仏教や密教、外国宗教を認め受け入れた。さらに月日が経つと各家庭に神仏を迎える場として神棚や仏壇が普及し、新興宗教のなかでもピラミッド型をなるべく平坦とした宗教が増え、唯一無二の神という存在は一般民衆それぞれ個人のウチに宿るものとされ、自敬を持ち同等に他己にも敬意を以て支え合った。
これは神道というアニミズム、世界の宗教の始原に通じることであり、社会的にも自己による他者への優しさ、自然との相互扶助や共存関係を築き上げることによって他との争いをなるべく減らすことになる。現代日本人の息苦しさといった生き急いだ世の中は、未科学の排除、伝承や文学が第二次世界大戦以後急速に排除され過ぎていることに深く根差している。
covid-19禍の解釈
結果的には影響が顕著なものほど心身的距離をとったり自らに由って個別最適化が進み、φにおける1:1.6を人が無意識に目指すように、:128や512、1024など拡散した数字を世界規模で収束して秩序立てる歩みとなった。自然発生か科学的なものかは、主体を私から地球という存在以上のものに移さない限り悪魔の存在証明であって、科学は現代科学による仮定なので常に再検討を要する。
観測者であれ当事者であれ、当事者のうちの当事者といった社会頂点の立場でなければ情報量におおきな開きがあり解らぬことであり、俯瞰を用いて一段階抽象化して捉えなおしてみると、一つの災禍であり出来事であり表徴である。現代に生きる当事者としては多くの者にとって災禍であったが、天秤のように外交的・内向的人格の社会的配置換え、大量生産大量消費社会の物質依存からの転換点となった。
俯瞰する後世の歴史研究家は当事者ではないので、当事者の目線をとおした観測者の目線を以て歴史教科書の一頁に載る一つの出来事として認識する。電子空間の大海から、量的情報収集からは災禍として映り、質的情報収集からは一出来事による社会構造の転換として映り、さらに時代が進むと広く学校教育に流布される教科書には載らないものとなる。
もののけ姫や風の谷のナウシカのように死の後に生があり、災禍があれば創造が行われる。科学先進国がcovid-19を災禍と認識した時代は2020年~2022年であって、当時の未知への恐怖を周囲の人たちと同じ1:とすると、歳月が経つにつれて観念が変わり、1:は変動する。
想いのうちにある願い
想いのうちから願いが生み出され、凝縮や蓄積するほど明確な目標目的となる。想いは空に浮かぶ雲のようなもので、生き詰った者が空を見上げたり宙を見ていたりとぼーっとすることは万人共通だろう。妄想や空想、理想などの想いは比して目的のような形ある確固たるものではなく、雲が風に吹かれて流れゆくことであり、霧散したり形作られたりする曖昧なものだ。雲は気体であり、気体は変化自在に形をなして見るものによっては天空の城のように、龍のように視えたりする。多くの者が同じように視るのであれば、多くの者による表徴であり、その個人だけに視えるのであれば個人のうちの表徴である。
例題
呪術的
日本では流星群の頃合いになると自然好きな人たちは人工光源の少ない地方や山へ行き、皆そろって静観していたり特に若者では流れ星が見えなくなるまでに願いを3回口に出して唱えることが多々見受けられる。夜空を見上げれば雲の合間合間に見え隠れする星の瞬きが見えるが、流れ星という一瞬の出来事に願いをかけたり祈ることは願いを叶えようと明確に意識する行為に他ならない。もう少し気長な者は神社に願い事を書き記した絵馬を奉納するが、幸せやお金を願う者は生への希求が根底にあって言葉や文字を用いてその欠片である幸せを願う。
漠然とした無意識に生への希求があり、流れ星に願う際は時間も限られていることから意識に上りやすいはっきりした明確な願いを唱え、時間に余裕のある絵馬の際はもう少し大きなはっきりしない願いを書く。
科学的
バベルの塔の逸話のように、神により近づこうと想い、数学をとおした経験則から製図や物の素材選定、点検など物理的土台を据えていき達しようとする行為で、それらを包括した巨大な式が誤っていれば計算式の再構築や別手段をとることが求められる。ロケットや宇宙エレベーターはおそらくそのあたりから派生したものであり、時代を超えて人類が築き上げてきた絶え間ない基礎作りの努力が基にある。
石橋を叩いて渡るという諺があるように、明確さが求められるが故に身近で明確な目標から達成していくことであって、堅実な大器晩成を目指す。石橋は頑丈だが、確認漏れや老朽化に対処することが求め、頑丈が故に補修や再構築に手間を要する。その最たるはAIであって、AIに任せきると木造の橋をつくる技術はロストテクノロジーとなる。
武道的
弓道では的という雲の中心点である星を射ようと、精神と身体の緊張を解してただ一点に集中する。無理に集中し過ぎても力んだ末誤り、心身が撓み過ぎても誤る。頭で考えても身体が追い付かず、身体だけが優れていても無意識に的を外す。意識と無意識が願いに対して一心一意、全身全霊であるかどうかに由る。
隔たり
私は意志を以て思考し理想を目指しているが、Xという障害物が大きく行く手を遮っているので理想に辿り着くことができない。とるべき最短経路はXを迂回するか、Xをはっきりと認識して暗闇に光を灯してXという未知を減少させることにより理想がより近くみえてきて具象化されてくる。
理想や願いといった曖昧なものに対して先日の日本心理学会大会を想起するが、アクティブサーチ(探索行動)という主題では端的に云うと、モノゴトにはモザイクのようにピクセル単位で大小様々なノイズが入っており、時間経過や経験の蓄積といった環境改変を通じてゆくことにより具象化されるものとコンピュータ解釈が唱えられており、一方ではXを解消するためには一段抽象化して捉えなおし、別のものを組み合わせたり割合を変化させたりと文系的解釈が唱えられていた。またとない、たいへん玄妙な討論場に出くわすことができた。
例題
食べ物を求めたマウスの箱庭実験で見られるとおり、空腹を満たし生きるために食べ物を求めてマウスは迷路を右往左往して目的に辿り着く。同じ条件の箱庭で繰り返すと経験に則り探索時間が減って疲労を最小限とする。箱庭のつくりに変化を加えるとまた最初のように思考を巡らせる。成功回数を重ねていくことによって知恵がつき、飼育された動物から自然界に暮らす動物のように生きる為に賢くなる。
人間はマウスより複雑な生き物だが行動原理は同じで、日本には成人式を迎えること、還暦や古希を迎えることといった歳の節目がある。民族的に節目という祝いを設けて、人生を目の前のことに踊らされず長い目で見据えるように意識させることにある。単純にいい大学を出ていい会社に入りたいといった目標に根差した生活の安寧を図ると、自分が何者でなにをしたいのかという背景があまりないことから、物質的には満たされても精神が満たされるかは本人が慢心せず挑戦し続けるかによる。とくに目標はなくとも志や理想があるといった壮大な願いを持つ者は長く広範囲な願いであるため、他者が安寧の刻や日、月、年を過ごしている間に経験値を積む。モノゴトには必ずタイミングという機運があるが、節目を意識することは機をみることであり、機運は願いを懐き続ける限り、環境改変により顕在化する。
生
人に限ったことではないが、生あるものは満たされないが故に願いが生じる。その元を辿れば生が満たされ、死へ転じたときに生を認識する。
主体を私という人の尺度から臓器や細胞に移し考えてみると、食べ過ぎるとおなかを下したり消化に力を使い過ぎて動けなくなり、臓器内では繁忙期のように過労で処理が追い付かず、過労によって死なないために休息を求められる。繁忙が多々あるほどに臓器内では改善が求められ、消化システムの効率化を図ったり、臓器の拡張を図ることによって対処する。アニメ「はたらく細胞」がたいへんわかりやすい。
一個体に問題が生じてもそれらの主人がその問題、病を解決するべく動かないと、一個体が死滅してその他の個体へ波及し拡大して大きな問題となる。生命力溢れる若手ほど新陳代謝とでもいうのか、個体として小さいが故に再生能力があり柔軟に対応することができる。これは子どもと大人を比較すると、身体の細胞数や脳のシナプス数から観ても、尺度を大きくして見た目といった身長や体重などからもわかる。
お風呂を例に挙げてみれば、お風呂で身体を温めたり精神的にリラックスしたいとおもい、お風呂に浸かると幸せに満たされる。しばらくするとお湯が冷めてきたりして、そろそろあがってあれこれしようとする。つまりお風呂において休息が満たされたことにより、次の行動に移る。
昔の人ほど、世界を巡る旅人ほど湯舟に浸かることによる幸せはおおきい。川や湖などでも心身を清めることはできるが温かいほうが休まる。現代日本においてはほぼ一家に一台のお風呂が備え付けられていたり自宅にお風呂のない地域では共同浴場や温泉が近くにあるが、お風呂が一家に一台へと普及する過程を省みると水で清めることから冷水や温水に分かれ、人が禁忌の知恵の果実をとるように、温水の方が楽に休まる。寒冷は生を意識させて温暖は融解することにある。
願いは生の渇望により自らの内から生まれる発芽である。
生の基本
この図を創ってみると人は春や黄色、まるで太陽だなあと感心するが、自然を観察してみれば内から外へと表出してゆくことが基本である。生物種としての人間は外向的であって、何かを得ようと求めることや行為することは生への渇望だ。ゲームに打ち込んだり数少ない友人のことをもっと知ろうと深堀して家族のような存在に近づける行為もその意味では外向的である。性格においては内向的な者、外向的な者と分けることが可能だが、友達が多いことや外に出かけることを好むといった表象的なことは性格や個性の範疇であり、人間種としてその元にそれぞれ人格、性格といった個性が形成されてゆく。
矢印を反対に内向きとすると個の凝縮となる。人間では鍛錬、精神では内的充足を図ること、植物では種子であり、季節であれば冬に中る。陰陽で云えば一という原初から陰陽に分かれて生とは陽、内向的精神は生の陽から分かれて陰である。
例題
物質的
植物は種子から芽や根を双方向に伸ばしてそれらから得た養分を内側にも向けて成長してゆく。プランターに植物を植えると、ライバルになりえる蒲公英の種子が風に乗ってプランターに辿り着き根差して、限られた土空間からの養分、日光を競い合い譲り合いをして育ち具合に差が出る。ヒトの身体の発達も受胎から肉体を形成してゆき成長してゆくと個を阻害するものに出くわす頻度が高くなる。プランターでは石を避けて根を這わせ、限られた空間であっても育つように人間は社会的生物で創造することが可能なので、法を生み出し法に由って両者争うことなく、平等にすることで自然も個人もすべて大事にすることが可能となった。
非物質的
精神的には生物的ヒトの種を超えて、思春期から始まる自己や他己の人格個別化に由るある種自然淘汰や弱肉強食の段階を踏まえて競争社会に没入する。自然界における生物はその理だが、人間はすべてに対して弱いが故に助け合い思考して社会を形成する。一切のストレスがなければ人間大の字で寝そうなものだが、あらゆる環境面から身を守るために衣食住の発展が促され、掛布団を掛けて寝たり、寒さを防ぐために外気流入を避けて窓を閉めて床に就く。太陽が生命の灯であり、その火が強すぎるが故に日本家屋では軒先や障子を設けて間接光として按配をとる。天のもとに地が生まれ、地のもとに人が生まれる。天が乱れれば地は乱れ、人はより乱れるが、その逆も同じことで、双方向に力は行き交っている。
生から願い
図化するとたいへん解りやすいが、願いに由って目指す星が顕れる。”顕”の漢字は日の下に糸が通じている様を視ており、この図に近い。願いに対して進んでいくとその過程に達成すべき小さな目標などが現れる。直線経路が遠い道のりであったり諦めて迂回しなければならない道でも、培った別の経験に由って関連付けが可能となる。諦めないことがカギとなるが、諦めたとしても十年後などの長期的、広範囲的視野で懐き続けること、生を諦めないことにより可能性が見出される。願いが達成されても次の願いが生まれることが人の常だ。これは欲とも云うし、欲の元を辿れば生とも云える。願いや欲は諦めても別の願いが生じるので差し支えないが、生きることは羽を広げることや手を伸ばすことであって、それら一切を諦めることはその者にとって時の停止、死への緩やかな衰退に他ならない。
例題
自意的
夢や理想といった志があることによってその方向へ足を進める。ある音楽家に憧れたならコンサート会場へ生演奏を体感しに行ったり、カバーバンドを起こして模倣して音を発してみたいとおもう。それで飽き足りないのであれば次の段階へと進み、よりその音楽家へと近づこうと試みる。A席のチケットを手配してより近くで見たり感じたり、その音楽家について記されたものに触れてみたりする。音は光と等しく振動の測りであるヘルツに集約され個の集合体であるので、基本的には直に会うことや音を体感することをお勧めする。言葉を発することは音を発することであり、文字を読むことは光によって可能となる。物質的にも脳や細胞は振動しており、可視光域外は見えず聞こえずだが人がそこに在るだけで、全身から振動を無意識に知覚し吸収している。
他意的
夢や理想といった志なく、親や環境といった他意に由って目標設定をしなければならなかったとしてもそこまで変わりはない。願いや願われることに縁って一生懸命に生きることが人生を一歩進めることとなる。学校の存在意義は人格醸造共存のために共同体形成と学ぶ場として成り立っており、学校教育期間が長い者ほど比して協調性に重きが置かれた人物像と成る。現代日本においては生存することが容易なことから麻生太郎氏が云うように義務教育を小学校までとしても差し支えない。
話を戻し、儒教思想に通じるかもしれないが基本的には先に生まれた経験豊富な先人たちの方が、人生を長い視点から普遍の理を経験している。長い視点といった俯瞰は、世の理を見出すことにある。RPGゲームでいえば、装備やスキルが揃った状態だがそれを操作するプレイヤーの力量が見合っていないだけのことで、発想の転換を手間暇かけてゆくことにより見出すことができる。
生の領域拡大
願いは生に根差した探索行動の結果として観測範囲が広がってゆく。これには観念や概念に囚われない限りにおいて個人差は存在せず、探索行動は為そうとせずとも生きている限り必ず行っているもので、先に述べたように”生”自体である。
子どもが成長してドアノブに手が届くように、成長するにつれてこの円もおおきくなる。内円がおおきくなるに伴い達成された星は近く、より遠くにあった朧げな星も少し近づき形が以前より顕になる。身体や精神の成長に伴い、願いがある程度達成されるとより広範囲に影響を及ぼすことが可能となる。
例題
認識範囲は人によって異なる。動物の眼の構造的には肉食動物ほど視野は狭く、草食動物ほど視野は広い。これは追う側と追われる側の違いが眼の構造に表徴として見出されるが、生物種としてのヒトは同じでも、各人の生の願いによって認識域は異なる。
図1・2との組み合わせ
図1・2の手法を組み合わせて、いま現在から見た昔の私を内円、今の私を中円、未来の私を外円にあてはめてみると、どこが違いどのように進んでいるかわかる。比較という手法はある種競争的で早生的なので、理解習得が早い分、目につきやすい具体的なことに注力してしまう。それら収集した情報に対して、質や量を求めることに依存してしまうことから反動の落差は仕方ないことだ。私と尊敬する人を比べて1:1.4など共通する事柄が多く理解できないことが少ない場合、その者の心や願い、行動所作などできる限り模倣してゆくことで近づけることができる。行動科学における心理学的解釈ではミラーリング2の類となる。私と相手が対等であるなら私と相手の得意不得意、願いなどを図4のようにそれぞれ書き出して自他の色を分けて、円を重ねることによりわかる。情報収集や知恵を駆使するほど明瞭となる。
階層域
精神年齢が実年齢と同じであるとき、10歳と30歳ではできることが異なる。内円を10歳、中円を30歳、外円を60歳などと定めると解りやすいが、10歳は30歳と比較して未知がおおく、物質的視界が未熟なことから基本的には物質的に願う尺度も近く小さいものを選ぶことになる。未成年は保護対象であり、教育や伝統、家族などの存在はそれを望んではいないために、個の自立のためにより賢くあれとあれこれ制約を定める。30歳ともなると経験や社会・経済的自立などによる自由がおおく、10歳の頃よりは物質的制約がなくなることから容易に満たし達成することが可能となる反面、精神的満足が蔑ろにされがちとなる。
現代日本社会は今のところは唯物論的見方に偏っていることが普通や常識となっているため、10歳は物に満たされず囚われないが故に精神の自由から溢れ出る果実としての創造性などは高い。
応用
営業未経験でも話術に長ける者は会社の稼ぎ頭と成り得るし、写真が上手になるにつれて視方や観察力が増してくる。これら一技術特化は早熟となり、特化ではなく多方面展開による円の緩やかな熟成は経験収束による大器晩成となりえる。極端に云えば一技術に専門特化することは円から一つの星に線を引っ張り尖ることになる。本人が望んでそうなるのであれば問題にすることではないが、社会がスペシャリストを求めることは尖りを求めることと同じで、ひいては自然体である人間から離れて歪みとなって病が増える。自身をあえて物のようにも扱うことができることを自在というが、自他和合することなく他者に従うことは自在といわない。
外界からの接触
他者A,B,C,Dはそれぞれ私に対する接触が異なる。やはり私と他者、他己の間柄には物理的・心理的人と人の空間が存在しているので、完全に理解されることはない。
より詳しく視ようと眼鏡をかけたとしても点による観測であって、その個人の自然体から離れてフィルターを通した具体化であるのでフレーム内に注視してしまう。これにはAとDがあてはまる。BはBの知り得ぬ目標に向かって邁進している私を捉えている。近所の顔なじみのおじさんおばさんや、組織内の一般的先輩後輩の間柄に中る。Cにおいては長い時を共に過ごした家族や友人といった身の内で、共有することが多いことから円のように包括して私を観測している。DとAの相違は私のどこに着目しているかであり、願いの過程や目標などの本末の末ではなく根本を視ており、カウンセラーや占い師の類といった技術者は私自体を視ている。
例題
Aと私
私はまだはっきりと肉付けされない曖昧な願いに向けて、道中に達成すべき小さな3つの目標を認識したところだが、Aは私の”曖昧な願いにのみ”接触している。そこだけに着目されるとAにおいては、睡眠時の良い夢を人に話すなと言われることと同じで、現実味が無かったり夢追い人だと感じられる。家族や知己の間柄ではなく情報質量といった縁や愛が皆無の初対面の人が当てはまりやすい。
具体的にはこのご時世、喫茶店でパソコンを触る者は仕事をしている者と認識され、紙の本を読む者は非現代的で一般的に非効率と認識されやすいことからスマホ脳からの脱却か暇人と認識され、新聞を読む者はまだ多いことから日課である新聞紙からの情報収集、スマートフォンを触る者は何をしているかわからないことと現代の風潮から、電子空間の外界と内界における内界に没入している人で、電子空間外を求めていないと認識される。つまり何のためにしているかわからないことが点による観測であり、観測者の人生経験に拠って全く異なる。
また見方を変えれば学校において、30人のクラスメイトがいるとその中間的人物像であることが無意識に求められるが、そこから乖離した者は良し悪し目立つ。若さ故、なぜその目立つ者はそのように行為するかを意に介さず目立つ点、つまり表象だけを見ており、グループ毎においても見方はそれぞれ異なる。
私の何と面しているか
同じサークルに所属する仲間同士において、私とCはサークル活動という同じ目的に対して一面を共有しており、プライベートな話をしたりもする。同じ目的とプライベートを含めることによってBと異なり、私の内面を知っていることや共通の目的を懐いていることから濃い人間関係を構築することとなる。この関係性は俗に親友と呼ばれる。仮に属する集団が変わりCと異なる道を歩んだとしても、その過ぎ去りし淡い過去は事実なので昔話に華咲かせやすい。
私の周囲にいる仲間や恋人、家族はなぜ一緒にいるのかを考えてみればわかる。私がよくご飯を奢るから一緒にいるとすれば、貧しくなってご飯を奢れなくなると離れる、という場合だと私ではなくお金に対してついてきているといえる。ご飯を奢ることは切っ掛けを作ることにあり、奢られる方は最初は一緒にいることだけで幸せだったかもしれないが、それに慣れ過ぎて目的がお金に変化してしまうこともある。一緒にいるだけでいいというのは各々が自敬を持ち他己を知り、平等であることがあってその次に社会的・経済的ゆとりのある方がおおく面倒をみることになる。これを持てる者の義務、noblesse obligeといい、上下だけではなく左右の関係においても成り立つ。
0か1かという解りやすい単純な例えであるが基本の型はこの通りだ。社会的立場や年収、外見的美しさ、使命といった一部は私の表徴に過ぎない。私が他者に接する場合においても同様である。
俯瞰の私と私
この図を眺めている様を俯瞰という。ゲームやアニメ、読本なども同じことで私を当事者ではなく第三者と見做すことにある。俯瞰は時間と空間を超えることから身体を通じて知覚することではないので、身体感覚に非ず、魂でもなく霊である。
参考になるもの
原作:清水茜 アニメ「はたらく細胞」 – NHK
リンゴ(林檎/りんご)の105品種一覧:旬の果物百科 (foodslink.jp)
赤系の色一覧:伝統色のいろは (irocore.com)
哲学の「哲」とは何か、 なぜ「哲」学というようになったか知りたい | 調査支援・資料紹介 | 大阪府立図書館 (pref.osaka.jp)
倉兼卓己.細胞機能活性化のためのナノ振動装置の開発 (ibaraki.ac.jp)
ミラーニューロンと共感の神経科学 (positivepsychology.com)
ミラーリング:定義、例、心理学 – The Berkeley Well-Being Institute (berkeleywellbeing.com)
- 参考URL「ミラーニューロンと共感の神経科学」ジェレミー・サットン博士か、「ミラーリング:定義、例、心理学」のウェルビーイング研究グループをご参照いただきたい。 ↩︎