まえがき

 いつもどおり記述は生きものが如く逸れに逸れている。本来、検索エンジン最適化(SEO)のためにはせめて一記事の中身に統一感を持たせて学術なら学術、日記なら日記と定型化したり、ウェブサイト全体で色を統一化しないとアルゴリズムが判断区分けすることできず、散逸者となってしまうのであまり良いことではない。ところが逆立ちして考えてみると、諸行無常であることは自然なのでそれをインターネット空間へ展開できていることは喜ばしいことである。

方位方角

 だれしも一人ひとりが事象を素のまま見ているはずだが、左手と右手があるように、”心で感じる”と”頭で考える”があるように、事象の顕れ方が異なるゆえ古今東西ここんとうざい誤解が生じる。

たとえば、

・ ・ ・
・ 家 ・
・ ・ ・


この平面図中心点を安息場として私たちは希求していると仮定する
この中心点である家に帰りつきいこふためにはそれぞれの座標により道が異なる


・ N ・
・ 物 ・
・ S ・


NさんとSさんでは座標が異なるので物の顕れ方が異なることがわかる
リンゴをみても角度によって映り方は異なる
平面空間と立体空間で映り方は異なる

中心点を0とし、上下をy軸、左右をx軸とする
これは各々によって上下左右へなにを当てはめるか異なる
東西と南北・卯酉ぼうゆう子午しご現実Real想像Imaginary・水平と垂直・横と縦、などある



 自らが自らの道行く末に”神は死んだ”といふ哲學者は、周囲の不評を買えども後世や学徒からすらば一参考としてありがたく仰ぐことできる一つの灯された道であり、それに等しく神を信じ”神はいる”といふ信仰者も然り。等しいとは、自らが信念において葛藤し克ち摂りゆくにせよ、神への信念において戒律や法律を守り誠実たらんとすことも、どちらにせよたいへん努力家であることを指し、その姿かたちは石を投げられようと世間といふ川の流れに動かされようとも譲れないものがあることは励まされ学びたくなるものだ。賢人や道徳者が示したものは”為すことは良し悪し問わず巡り巡って還ってくる”といふことではないだろうか。愛しき子どもや敬愛なる後輩といった者へほどそう言い残すのではないか、また同時に慕われていることにより相互循環がはたらいているからである。片想いの恋と両想いの恋との違いである。親が子へ片想いしているのか、子が親へ片想いしているのかはつまらぬことであるが、童心忘れた親は親と呼べるだろうか。大人とは子どもからの階乗ファクトリアルであり積分インテグラルであるから、無差別無分別へ変態metamorphosis能うことできねば大人でない。大人とて熱中しているときは周りが見えず子どもであるから楽しいものは楽しい。大人になれども張り合える相手つまり友や兄弟がおらねばきる。子どもは物がないから空想して遊びを創り出し楽しむがゆえ、否、”物”という言葉や概念がそもそもないから転用も発明も叶う。創造性は童心、自然にあり。大人は無分別無差別であると同時に分別差別をすることができる。同じ方向へ向くことに基点を置いているだろうか。

人工時計と自然時計

南北が反転しなければ西洋式において、
太陽は東側から天へ昇り西側へ下る
時計は9時が左にあり3時(15時)が右にある
時計は午(南)12時間と子(北)12時間の陰陽裏表がある

 午前・正午・午後あるように、午を天として前に6時間、後に6時間とするように、午12時間は人の活動する時間である。子12時間は靈の活動する時間であるゆえ黄昏時や逢魔が時なるは子午の境界線あたりである。発明家や芸術家が時折夜行性となるは自然にしてこの理である。火や電気といふ非物質非科學のお陰で夜に活動することができるようになった。パソコンや電卓とて電気ありきである。

 いにしへは近代以降と異なり正午とは時計の正午12時でなく、太陽が頭上にある午の正刻の頃合いであるから、北海道と沖縄では時計上と異なり一日中の差が大いにあるし、また冬至夏至あるように変化する。——連想するに日中が午の時間帯であるから月中は子の時間帯であるだろうし、また、時代や人によっては一日を午12時間として書き残していることだろう。——座標により一日の長さ延いては年の長さが異なることは当たり前であり、座標に合わせた無常の計算が面倒なので太陽暦や機械化された精密時計が好まれるのではないか。理気二元論における理への偏重であるし、近代以降の人はどうも年々と心身壊すほど真面目が過ぎるのでまことに異常の極みであると見受ける。それを自ら解っており、望んで、幸せで、やっていることならたいへん喜ばしいことである。経済が回らないのもここにあるとみている。気に欠けている。

国家・都市

京の都と東の京の都で向きが異なる
京の都は京都内区画で北を背に南へ向きて東を左京、西を右京とす
東の都は国際基準図で南を背に北へ向きて見慣れた地図通りとす

平面図上において国を跨ぐ交流では、
北端の国は南側をしかみることができない
南端の国は北側をしかみることができない
間にある国はy軸(上下)x軸(左右)と可変である

 たとえはなんでもよいが、有力と無力・老人と若人・富者と貧者・高学歴者と低学歴者・など相対あいたいして高低の人間関係をみたばあいは、それら概念——最小単位である一量子——上においてぶつかることができる。一方が量子ではなく分子など大きなものであれば、受容内包することでぶつかりを避けることができる。風や水に流れるもよかろう。量子衝突は規定されたレール上でしかできず、多くの場合自らが自らを量子化しているのである。”虫のいどころが悪い”とか”機嫌が悪い”とか”つかれている”などである。もちろん将棋といふ遊び上はレール上の真剣勝負であるから勝ち負けせねばならない。

 換言すると石と石は人の手により、両者強度や組成材料などで強弱を生みまた火花を起こすことができるけれども、人は石に非ず固体・液体・気体などで組成されており固体面を微分してゆけど、物理上の量子衝突は精緻な逃げ場無き管や軌道で定められている場合にのみ起こるものである。人は電車といった物に非ず気分や意志により逸らしたりふと考え直すことができる。盾と矛のことわざはこの量子衝突を指している。

位置

自己が対面する相手の左側へ球を投げる
すると相手自体は右側へ来た球を受け取る

自己が対面する相手の右側へ球を投げる
すると相手自体は左側へ来た球を受け取る

自己が対面し奥に居る相手の中心へ球を投げる
すると奥に居る相手自体は手前に来た中心の球を受け取る

自己が天井から落とした球は眼前真下である奥へ落下する
すると下に居る相手自体は眼前真上である奥から手前へ来た球を受け取る
球自体は天から地へ自然と向かう(落下、重力、引力)
球自体は地から天へ自然に逆らい自力の限り飛ぶ

遠くから来る球は遅く小さいが手前に近づくにつれ速く大きく感じる
投げた球は速く大きいが奥へ行くにつれ遅く小さく感じる

この項は話が飛びわかりにくいので、紙に書くか鏡が手元にあるほうが自ら再現することにより身をもって理解しやすい。頭でわかっていても実際は異なること多いので、下記(甲’か乙’)どちらであるかにより目前の人をどう意識しているか分かれる。いては世界や概念をすらである。甲’は自らの影が映り、乙’は相手が映る。可能であれば、紙に書いてから鏡で実証したほうがよい。
相手の立場に身を置き換えて考えてみるとは後者(乙または乙’)である

私(甲とする)は、右手で右頬に触れる

一、
鏡に映るもの(甲’とする)が右手で右頬に触れていると視認する
自らは意識せず一人称視点(甲’)として映る

一、
鏡に映るもの(乙’)が左手で左頬に触れていると視認する
鏡は左右反対の二人称視点(乙’)として映る

 対人心理のばあい、見知らぬ者といった信賴無き者同士であれば外見や地位名誉といった目に映るソト側で判断し、判断される。家族や知己の間柄など心の壁を設ける必要がない自然状態では、素の状態すなわち心閉ざさず開けているとソトはただの飾りであるから気にすることなく、ウチをさらけ出していることになる。

式化しよう

甲と乙の二人がいる
甲である私は、乙にたいして甲’を投影するか乙’をみている
甲’を投影するばあいは自らの心持ちなどで変わり化ける
乙’をみているばあいは乙(ウチ)が乙’(ソト)へ投影しているをみる
なぜ乙と乙’は異なるかというと、甲に甲’があること等しい

 では甲と甲’はなぜ生じるかというに自らのウチとソトが必然とあるからである。素っ裸の私と服を着ている私の違いである。これは、思考とことば・本音と建前・上司と部下・構えなければならぬ人と構える必要がない素であれる人・など他者と自分の外側で起きる関係性や、自分の内側においては素の何もしていない状態と喜怒哀楽の心動いている状態の差である。

自分のウチとソト、そして他者(・)を図示しよう

・ ・ ・ ・ ・
・ 外 外 外 ・
・ 外 内 外 ・
・ 外 外 外 ・
・ ・ ・ ・ ・

 相手がどうかは相手の都合なのでどうでもよいが、己が構えぬ状態であれば外壁を築く必要がないので内外は統一される。それゆえ名声地位誉ある羨ましく映りし者は、縁遠い者からほど良し悪しと誤解生じることになる。快不快にたいして考えることは大事だが、身近な者同士で爭いあうことほどつまらぬことである。孔子に曰く、自らが知らぬを患えよの言である。して、満たされると満たぬが恋しくなる。
 以上のことから、先ず自らの意識で外界それぞれが良し悪し化ける。歳負う者ほど口酸っぱく健康が大事というのは、晩飯を食い過ぎれば寝つけ悪く翌朝機嫌悪いことに通じ、食わなさ過ぎれば二時間後や四時間後に起きたりするのでその加減で一日の始まりが変わるのである。悪しき状態を繰り返さば悪習慣常識なりけり、自制自操がもとなり。

——

ちなみにパソコンで今この文章は紙面のように甲’へ調整されている
人によって、記事によって、場合によって甲・甲’・乙・乙’・丙・丁・・・など書かれ映るものは、どの視座でどの方向へなどは書いた人しかわからない。対面する相手がどう想い言葉を発しているかも突き詰めるほどわからない。浮気をしていない相手へ浮気を疑ってもキリがない。相手といふ鏡が甲’か乙か乙’かと考えることは經驗により鍛えねばわからない。靈性強き者ともなれば丙や丁などもまたありえるので、ほどほどが大事である。

——

もう一度転記しよう

右手で右頬に触れる私(甲とする)は、

一、
鏡に映るもの(甲’とする)が右手で右頬に触れていると視認する
自らは意識せず一人称視点(甲’)として映る

一、
鏡に映るもの(乙’)が左手で左頬に触れていると視認する
鏡は左右対称の二人称視点(乙’)として映る

赤子や育った犬猫は他者の痛みや喜びに共感することができる
つまり人の生来は鏡がなくとも後者(乙、乙’)の性質を有する

頬に触れてるAを観る同平面上三人称視点( “T”の下端視座から)では、
ひだりにA、みぎりにA’とすると、
Aの右手前側、A’の右手前側が映る

 つまり置換すれば、対象が物体であれば自ら動いて表裏を視認することができるが、喧嘩しているように映る二人がいる場合、それをみている私は双方の表しか見えていない。これは映る概念上の爭いも同じであり、自らが感じているうち知っているうちでしか表れない。裏や内心を理解しようとすることは難しくまた文化人類学者がいうように、要らぬお世話であるかもしれない。

4/13~5/3の間のどこか- 記