人情と 非人情との画の違い
|玅《たゑ》なるものや 其の顕れは

ことば

 句はここ2,3ヶ月、文章表現はこの1,2年で鍛えられてきた。ことばは意の表現でありながらも頭の中で完結するものでなく公言するものであるから、この間の駆け引きがすこぶる難しい。この駆け引きとははじめに他者の顔色窺う見られるものでなく、私自らの内省による主観と鏡に映る私の調和調律ハーモニクスチューニングである。バンドマンだとか起業家といふもののはじめは”損して得取れ”と”継続は力なり”の二語に尽きる。これは人間関係でも等しく、自らを下げ奉仕奉公と往生していると失敗の数だけ力がついて、悪かったことすら笑い飛ばせるように信じる者は救われるのである。世間では成功がどうの世間体がどうの将来性安全性がどうのとよくわからぬ数学的言が飛び交っているが、夜山よやまいただきより星眺める愉しみといふものが忘れられているようにおもふ。夜の山に独特なむしや鳥獣の息、澄んだ空気とが大いにあり、感性が研ぎ澄まされて日中に味わえぬ風情を体感できる。昔なら夜の入山は禁じられたことかもしれぬが、科學技術のおかげで夜山とて親しみやすいものとなった。もちろん自然であるからときには恐ろしい顔を見せるものである。しかしまあやはり忙しなくありすぎると余裕がない。余裕がないと酒の味も酔い心地すらわからなくなる。余りものとしてそのうち福があるだろうといふ呑気さつまりこころのひろさがないことには、新たな発見や出逢いや過去の活かし方に気付けないのである。事の始まりである若いときほど我武者羅がむしゃらであるから文字とて書き言葉ではなく話し言葉でその時その場で思うたことを書き、見られる意識なく主観自個で完結しているものだ。

 話し言葉は身構えて言葉を選ぶといふより、敢えて言語化を試みるに、その時その場の相手との雰囲気で煙草の煙のように散じ流れゆくものだから、目をとがらせた癇癪持ち相手でもなければさして気遣う必要なんてないものである。いくら言葉が通じぬ相手でも顔色悪そうな人やキョロキョロしている人や酒気帯びて道端で寝ている人がいれば気を遣ってしまわなくないが、これを柄にもなく「怪しからん」と定規でひいたような考えが増えてしまうと段々ギスギス困った世の中となってしまい、言いたいことも言えないそんな世の中なんてことになってゆく。どうも最近はパワハラセクハラハラハラと、ハラハラが好きなのか嫌いなのかハラハラしたいのかよくわからぬ流行りだなあとおもふ。ハラハラ転じてギスギスするよりキスキスしている方が、「今どきの若者は」や「この現象は○○欲求だ」とかと言われてしまうけれども芸術家としては長閑のどかな景色となる活気となる。そう考えてみると大人は、それぐらい自然素朴な呑気さを過去に置いてけぼりに、仕事だ世間だと熱中夢中とヨソ様を気にし過ぎてしまうのはもったいない。呑気に喫茶店へ足を運んでみると、珈琲の香りとその味わい、粒子の渦巻くさまといったようにおもしろいものは日常の自然にも散らばっている。ブレンド珈琲だなんて言わずに、たまには純粋なストレート珈琲のグァテマラやキリマンジャロやコロンビアといった種々味わってみると奥深さがわかってくる。最近だとやはりなんでも電子化のご時世なので、喫茶店から遠のいて皆が個人〃で電子情報空間インターネットといふ大海へ出てしまうので、現実はちょっぴりもの寂しいものとなる。その大海で泳いだり潜ってお宝を見つけたりただ浮いて波に揺られて空眺めたりするのは愉しい。愉しさに夢中となっていると我を忘れてどちらが日常か忘れてしまったりもする。喫茶店といふものは居酒屋とまでいかなくとも話し言葉のような雰囲気を持っているのだろう。

音楽

 表現といふものを思い返せば音楽でも近しいもので、ギターを弾き始めた高校一年生頃の私は奏でる者としての音も演じる者としての映り方も自らのウチに意思無く、バンド演奏の流れに譜面通りに音を合わせ乗せることのみが全てであった。事の始まりに情熱を灯してくれた作品がある。兄貴の影響で中高生の頃にマクロスシリーズの『マクロス7』というアニメに熱中した。これは『銀河英雄伝説』や『星界の紋章』や『機動戦士ガンダム』とは異なる宇宙モノだ。この作品の侵略者である異星人はアニマスピリチアを採取しにマクロス移民船団へ侵略した。これを採られてしまうと生き心地といふものが失われて病院送りとなってしまうようだが、主人公である熱気バサラは「爭いなんてくだらねえ、俺のうたをきけ!」と敵味方異星人と関係なく両者爭う間に突っ込んで行き誰彼問わずうたごえを響かせる。音楽は情熱である心からほとばしる叫びである。たとえアニメとてその情熱はハートに響いてくる。爭いなんてものは生きるために起きてしまう知性だか理性の方便に過ぎず、そんな一面で歩みを止めてしまうと生長を夢見るわれわれの希望に応えることができなくなってしまう。定規でひいた道なんてものは不自然であり、現実は名付けられて類化されているものでさゑ完全一致の花々や星々は存在しない。

 また、小学生の頃より、音楽バンド”LUNASEA”も家で流れていたので兄貴の影響が大きい。高校生になってからギター演奏を始めたこともあり、おなじギタリストであり先達であるSUGIZOの音や表現に憧れていたことから表現したい音との葛藤が極めて大きく、高校二年生頃からは単体効果装具コンパクトエフェクター限界を感じ、SUGIZOが試奏紹介していた複体効果装具マルチエフェクターを媒体として愛用した。高校生の私にとっては格別に複雑極まりなく、こうでもないああでもないと試行錯誤の日々であった。少しギターの歴史を辿って大雑把に述べるに、ギターといふものはアコースティックギターという自然素朴なサウンドから始り、アンプスピーカーといふものによって電圧を掛け出力が増加し、効果装具エフェクターにより音を歪ませたり揺らがせたり遅延させたりとすることができるようになった歴史がある。単体効果装具コンパクトエフェクターと異なり複体効果装具マルチエフェクターでは、ふわっとながらこのような音にしたいと意図設計する私個人の音をその効果装具エフェクター内で完結する為たいへん時間がかかり複雑処理となる。若い頃ほど夜更けまで効果装具エフェクターと語り明かしたものである。私個人の閉ざされた空間といえよう。調整し終えればスピーカーから出る音に水平線上で痛すぎないか調整する。バンドリハーサルにおいては各楽器の帯域や配置や音の反響に応じて再調整が必要だ。ギターはバンドにおいて上物うわものなので歌手うたいての声を削ぎ過ぎぬよう、またベースやドラムの肝である中音を削り過ぎぬようにしつつ個性あるギターとして在らねばならず、ギターソロでは前に出てわれを忘れて響かせるのがソロだ。公演会ライヴでは精緻に弾くより一期一会のこのハレ舞台に、演奏の合間〃にベースと掛け合わせたりお客さんやスタッフと目が合い照れたりこの出番にこころを込める。失敗したなあと気負ってしまうライヴの後でも「良かったよ」とか「あそこは惜しかったなあ」と励みをいただいて心が晴れる。そんな後の仲間たちと酌み交わす酒は格別に美味しい。美味しい酒ほど明日に繋がりそんな日々を演奏者は送っている。

天城越え
思想哲学諸子百家
|左右兎角《とかくとかく》と星まつりなり

4/25- 記